焔の郵便局

明治五年、春の東京。

 街にはレンガ造りの建物が増え、髷を結った侍と洋服姿の役人がすれ違うような、奇妙で騒がしい時代だった。


 その喧騒のただ中に、ひっそりと建つ「東京郵便役所」。

 郵便という新しい制度の象徴だが、その裏では、もっと静かで深い仕事が行われていた。


 そこで働く若い職員、**久慈原灯馬(くじはら とうま)**は、机に向かって封書の重さを何気なく量っていた。

 柔和な顔立ち、黒髪をきちんと結い、手つきも丁寧。

 誰が見ても“真面目な若者”にしか見えない。


 だがその実、灯馬の裏の顔は——

 新政府直轄の諜報員(スパイ)である。


 郵便制度は、全国の情報が集まる宝庫。

 政府は表向きのシステムを整えつつ、その裏を灯馬のような者たちが密かに見張っていた。

 反政府勢力が動けば、必ず“郵便”に痕跡を残すからだ。




 その日、灯馬の机に回されてきた封書は、他と違う気配を放っていた。


 差出人は「吉乃屋商店」。

 しかし灯馬は首をかしげる。


(吉乃屋商店の主人は……半年前に亡くなっているはずだ)


 封書を手に取ると、紙が不自然に硬い。

 軽いのに、内部で紙の擦れる音がしない。

 表面を撫でると、ごく小さな凹凸が規則的に並んでいる。


「……暗号だな」


 灯馬は誰にも気付かれぬよう奥の部屋へ入り、灯りを消して窓から差しこむ光に封書を透かした。


 紙の裏に、淡い線が浮かび上がる。

 煤(すす)と油で書かれ、光に当たると読める細工——“隠し文”だ。


 灯馬は息を呑む。


“二十六夜、宮城赤門前にて会合。

倒幕復古の志士、ふたたび集う。”


「……赤門、だと?」


 赤門とは、かつての加賀藩邸の名残。

 今は学問所の門として象徴的存在だが、そこに“反乱分子”が集まるというのか。


 灯馬の胸がざわつく。


 もしこれが事実なら——

 新政府の体制は根底から揺さぶられかねない重大情報。


「放っておくわけにはいかない」


 だが同時に、灯馬の心には一つの影が差していた。


(……兄さん。烈司兄さんは、今どこで何をしているんだろうか)


 戊辰戦争で行方をくらました兄、久慈原烈司(くじはら れつじ)。

 戦が終わった今も消息不明だ。


 その不安が胸に重く沈む。




 その夜。

 灯馬は諜報員としての装備に身を包んでいた。


 日本刀は持たず、袖の内側に忍ばせた短刃、

 外套には薄い革の防御具、

 そして洋式の小型拳銃。

 動きやすいよう帯も締め直し、髪は短く結ぶ。


 赤門周辺は月明かりが弱く、闇が深い。

 灯馬は門の影に身を潜ませ、耳を澄ます。


 風の音、草の揺れる音……

 そして——複数の足音。


(来たか)


 灯馬は気配を消し、闇に溶け込んだ。


 来たのは三人。

 一人は外国帰りらしい洋装の男。

 もう一人は、時代に取り残されたような古い羽織の浪人。

 そして最後に現れた男を見て、灯馬の息が止まる。


 闇の中から歩み出たその顔は、忘れようとしても忘れられない。


「……兄さん……?」


 烈司がいた。


 かつて軍列を率いて戦った、灯馬の自慢の兄。

 だがその眼差しは、あの頃の優しさを微塵も残していない。


「帝は傀儡と成り果てた。新政府は腐った。

 だからこそ、我らが“正す”。」


 烈司の声は冷たく澄み、確固たる意志に満ちていた。


「二十六夜。同志を集め、宮城に突入する」


 灯馬の視界が揺れた。


 兄が……反乱の首謀者?


 灯馬の喉がひどく乾き、唇が震える。


(兄さん……どうして……)


 胸の中で、郵便役所の昼の静けさが遠い夢のように崩れていく。


 そして灯馬は、一歩だけ前へ踏み出した。


「烈司兄さん……!」


 その声は、夜に吸い込まれるように響いた。


 三人が一斉に灯馬を振り返る。

 烈司の顔が驚愕に歪み、すぐに険しく変わる。


「……灯馬。お前が……政府に飼われたという噂は、本当だったか」


 灯馬の胸を、冷たい刃のような言葉が貫いた。


「兄さん、違う。俺はただ、国を——」


「黙れ!」


 烈司の叫びが夜の空気を震わせる。


「国のために汚れる覚悟もない者が、偉そうに語るな!」


 灯馬は一歩踏み出し、必死に手を伸ばす。


「兄さん……戻ってきてくれ。

 もう戦は終わったんだ。俺は兄さんと——」


「……戻らぬ」


 烈司が懐から短銃を抜いた。


「灯馬。お前が俺の前に立つなら——弟だろうと、撃つ。」


 赤門の静寂に、

 乾いた引き金の音がかすかに響いた。

乾いた引き金の音とともに、烈司の短銃が火を噴いた。


 灯馬は反射的に身を翻し、銃弾は赤門の柱に深い傷を刻む。

 続けて浪人が灯馬へ駆け込み、洋装の男は懐から仕込み銃を取り出した。


(一対三……だが、退けない)


 灯馬は袖から短刃を抜き、浪人の斬撃を受け流す。

 返す腕で肘を相手の鳩尾へ叩き込み、浪人が息を詰まらせる隙に、洋装の男へ飛び込んで仕込み銃を叩き落とした。


 だが、烈司だけは別格だった。


 兄の動きは迷いなく鋭い。

 戊辰戦争の修羅場をくぐった男の、重く速い踏み込み。

 灯馬は受けるだけで精一杯だった。


「灯馬、成長したな……だが」


 烈司の膝が灯馬の腹へ突き刺さる。


「まだまだ甘い!」


 灯馬は地を転がり、息が漏れた。


 その間に烈司は浪人を片手で制し、刀を受け取った。

 蒼白い月光を反射する刃が、灯馬の喉元へと向けられる。


「兄さん……どうして……どうしてこんな道を……」


「国を守るためだ!」


 烈司の声は怒号ではない。

 むしろ悲鳴に近かった。


「新政府は、志を忘れた。薩長のための政になり下がった!

 弱き者は顧みられず、戦で傷ついた者たちは捨てられた……!」


「兄さん……」


「灯馬、お前が知らぬだけだ。

 俺の仲間は皆、失意と貧困に沈んで死んでいった。

 それでも“国のために戦ったから立派だ”と言われて……それで終わりか?」


 烈司の瞳に、憎悪と悔恨が渦巻いていた。

 灯馬には、その想いの深さが痛いほど伝わった。


「兄さん……苦しかったんだな……」


 その言葉に、烈司の眉がわずかに震える。


「……灯馬。お前だけは……こんな腐った世を変えねばならん。

 だが……今の政府に従う限り、お前は“ただの歯車”だ」


 灯馬はゆっくり立ち上がった。


「兄さん。俺は……兄さんの苦しみも、怒りも、全部わかる。

 でも……だからこそ、暴力で国を変えることは……したくない!」


 烈司の目が細くなる。


「なら、弟よ。――倒すがいい」


 烈司が地を蹴った。

 刃が月光を裂き、灯馬へ迫る。


 灯馬は後退せず、前へ踏み込んだ。


 烈司の剣が灯馬の肩を浅く切り裂く。

 だが灯馬は痛みを無視し、その腕を掴んで力任せに組み伏せる。


 兄弟は互いの体を押し付けるようにして地面に倒れ込んだ。


「兄さん、頼む……戻ってきてくれ!」


「灯馬……お前には……わからん!」


「わかる! 俺だって戦ったんだ!

 俺も、兄さんがいなくなってからずっと……ずっと探してた!」


 烈司の体が止まる。

 腕の力が少しだけ抜けた。


「……灯馬……」


「兄さんは俺の誇りだ。今でも……ずっと。

 だから、こんな形で死なせたくない!」


 烈司の瞳に迷いが浮かび、その刹那――

 灯馬は烈司の腕を極め、銃も刀も届かない体勢に封じ込めた。


 烈司が苦痛の声を上げる。


「灯馬……!」


「すまない、兄さん。

 俺は……兄を守るためなら、どんな汚れ役でも引き受ける!」


 烈司の体が、力を失ったように沈む。


「……灯馬。お前は……立派だ」


 その声は、かつて灯馬を励ましてくれた兄の声だった。


 烈司は抵抗をやめた。

 灯馬は兄を抱きしめるようにして、静かに意識を落とすのを待った。



 翌朝。

 赤門前で倒れていた反乱の三人は、新政府の密偵によって極秘裏に拘束された。


 久慈原烈司は、灯馬の手によって生かされた。


 しかし灯馬には、兄の行方を知らせる権利は与えられなかった。


 上からの通達は、ただ冷たかった。


「諜報員は、家族を持つな」


 灯馬は黙って受け入れた。


 その日、灯馬が職場に戻ると、机にはまた新しい封書が積まれていた。

 その中に、一通だけ見覚えのある封筒がある。

 兄が戦地へ向かう前、灯馬へ送ってくれた手紙だった。


「……兄さん」


 灯馬はそれを懐にしまい、新しい“怪しい封書”を手に取った。


 郵便役所の窓からは、文明開化の街並みが見える。

 ガス灯、洋服、馬車……明るい光。


 だが灯馬は知っている。


 光が強くなれば、影もまた深くなる。


 そして影の中を歩く者に、終わりはない。


 灯馬は静かに立ち上がり、次の任務へと歩き出した。

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