影走りの記録

すぱとーどすぱどぅ

金烏(きんう)の巻物を奪い返せ

 金烏。それは朝廷内部に伝わる禁忌の外交書と噂され、国を揺るがす密約が記されているという。巻物は何者かに盗まれ、江戸へ運ばれた。背後には幕府の敵対勢力がいるらしいが、正体は不明。


 宗十郎は、情報屋の女・お鈴が営む茶屋へ向かった。薄暗い灯りの下、お鈴は宗十郎を見るなり眉をひそめた。


「また厄介な仕事ねぇ。命がいくつあっても足りないよ」


「金烏の巻物を持つ者の名を知りたい」


 お鈴はため息をつき、茶を一口すすった。


「“京から来た浪人者”って噂さ。名前は…霧江(きりえ)左馬介。腕も立つし、何よりすぐに殺す癖がある」


 宗十郎の眉が動いた。

 霧江左馬介——かつて宗十郎と同じ影走りとして育てられ、今は裏切った男だ。


「巻物を渡して消える気か。あいつのやり方だな」


「宗十郎、気をつけな。あんたでも勝てる相手じゃないよ」


 宗十郎は返事をせず、茶屋を後にした。




 その夜更け、宗十郎は霧江が潜むと噂される廃寺へと足を踏み入れた。風は止まり、杉の匂いが満ちる。

 堂の奥から足音がし、懐かしい声が響いた。


「宗十郎か。やはり来たな」


 霧江左馬介が闇から現れた。腰には巻物を収めた布袋が揺れる。


「巻物を返せ、左馬介。お前のためにもならん」


「幕府の犬が何を言う。これは俺が生き延びるための“通行証”だ」


「そのために何人殺した」


「数える意味があるか?」


 二人の間に沈黙が落ち、月光が差し込んだ瞬間——

 霧江が地を蹴った。


 刃と刃が交差し、火花が散る。宗十郎は紙一重で斬撃を受け流すが、霧江の動きはさらに速く、重い。かつての仲間でありながら、その一撃には迷いがなかった。


「宗十郎、お前にはわかるまい。影走りは使い捨てだ!」


「それでも、守るべきものがある」


 霧江が笑った。


「守る? 幕府か? それとも…あの茶屋の女か?」


 一瞬、宗十郎の心が揺れた。

 その揺らぎに、霧江の刃が迫る。


 だが。


 宗十郎は身を低くして避け、逆に霧江の腕を打ち払った。

 霧江の刀が床に転がり、布袋が宙に舞った。


「……宗十郎、やるじゃないか」


「巻物は返してもらう」


 霧江は床に膝をつきながら、悔しげに笑った。


「勝ったのはお前だ。だが…これで終わりだとは思うな。影走りは、影に喰われて死ぬ」


 その言葉を残し、霧江は闇へ消えた。追うことはできなかった。




 翌朝、宗十郎は巻物を密かに上役に渡した。

 だが、上役は巻物を開こうともしなかった。


「宗十郎、よくやった。このまま金庫に封じておく」


「……中身は確認せぬのですか」


「知らぬ方が良いのだよ。我らも、国も」


 宗十郎の胸に、言いようのない虚しさが広がった。


 ——自分は、何のために戦ったのか。


 答えはない。

 影走りは、光に届くことなく生き、死ぬ。


 宗十郎は静かに歩き出した。

 夕暮れの町に、影が伸びていく。


 その影は誰にも気づかれず、歴史の片隅に消えていった。








――――――


京の都に、夜風が冷たく吹き抜けていた。

 寺社の灯りが揺れ、遠くの通りでは三味線の音がかすかに響く。

 その静かな夜、その陰でひっそりと殺しがあった。


 死んだのは公家筋の密使。胸に刻まれていたのは、鮮やかな紅椿の焼印。

 それは、京の裏社会で恐れられる女――“紅椿”のお甲(おこう)の印だ。



 江戸から京へ赴いていた葛葉宗十郎は、隠密屋敷で報告を受けた。

 上役は短く言う。


「宗十郎、京で紅椿が動いた。

 狙われるのは——おそらく、幕府寄りの議員・柳橋典膳だ」


「紅椿が……誰かに雇われたということですか」


「そうだ。依頼主はまだ掴めん。だが、京は今、誰がどこに味方しているかわからぬ。

 お前一人で動け。典膳を守り、紅椿の背後を探れ」


 宗十郎は深く頭を下げた。


 だが、胸の奥がざわついた。

 紅椿のお甲は、三年前の任務で一度だけ刃を交えた女である。

 彼女は情け容赦ない暗殺者であり、同時に、宗十郎が数少ない“死を感じた相手”だった。



 翌夜、宗十郎は典膳邸の周囲を見回っていた。

 庭を渡る風の音も耳に入るほど集中していたが、不意に背後に気配を感じた。


「……久しぶりだね、宗十郎」


 声は低く、艶を帯びていた。

 夜気の中から、紅椿のお甲が姿を現した。


 黒髪を高く結い、白い肌に紅の椿を描いた髪飾り。

 その手に持つ細身の短刀は、血を吸ったように黒く光っていた。


「典膳は殺させない」


「それを決めるのは、私じゃないよ。私はただ、“頼まれたからやる”だけ」


「その依頼主は誰だ」


「……言うと思う?」


 お甲は微笑むと、消えるような速さで距離を詰めた。

 舞に似た動き。だがその一振りは確実に相手の急所を狙う。


 宗十郎は刀を抜き、防ぎながら叫ぶ。


「お甲! お前まで影に喰われる必要はない!」


「私は最初から影だよ。

 光に当たったことなんて、一度もない」


 その声は妙に淡々としていた。


 二人の刃が何度も交わり、火花が散る。

 お甲の短刀は華奢だが、一撃の重さは宗十郎の想像を超えていた。


「昔より腕を上げたな」


「あなたのおかげだよ」


 皮肉に聞こえたが、どこか本心にも思えた。



 戦いながら、宗十郎は異変に気付いた。

 お甲の呼吸が乱れている。動きが鋭いのに、どこか無理をしているようだった。


「……毒か?」


「さすが宗十郎。私の命は、もう長くない」


 お甲は笑った。

 その笑みは、いつになく弱かった。


「依頼主は、場を濁さないために『仕事の途中で死ね』とね。

 依頼を終えても、生きて帰す気はないみたい」


「なんだと……!」


「いいんだよ。私は最初から、誰のでもない女だから」


 その言葉に、宗十郎の胸の奥がちり、と痛んだ。


「典膳も殺させない。

 そして……お前も死なせない」


「それは、無理」


「無理ではない!」


 宗十郎が踏み込んだ瞬間——

 お甲の短刀が宗十郎の肩を浅く裂いた。


 同時に、宗十郎の刀が、お甲の短刀を弾き飛ばした。


 短刀が地に刺さり、金色の音を立てる。


 お甲はふらりと膝をついた。


「……宗十郎。あなたは、本当に……」


 その言葉は続かなかった。

 毒が体を巡り、紅椿のように唇が赤く染まる。


 宗十郎はお甲を抱き留めた。


「医者を——!」


「無駄だよ……。でも……こうして抱かれるのは……悪くないね」


 お甲は静かに笑った。

 そして、風に溶けるように言った。


「宗十郎。もし生まれ変わったら……普通の女として、あなたに会いたかった」


 次の瞬間、お甲の体から力が抜けた。


 紅椿の髪飾りが落ち、夜風に舞った。



 後日、幕府は典膳暗殺を企てたのがどの勢力だったのか、宗十郎には明かさなかった。

 ただ一言。


「影は影とだけ戦えばよい」


 宗十郎は黙って従った。


 だが、懐には一つだけ私物が増えた。

 お甲が最後まで離さなかった、紅椿の髪飾り——。


 それは、宗十郎にとって初めての“墓標”となった。


 影走りは、人の心を持つことを許されない。

 それでも、夜風に揺れる紅椿を見るたび、宗十郎は思い出すだろう。


 月下で散った、ただ一人の女暗殺者を。

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