文久三年、京。

 夜の三条河原に、一人の若者が立っていた。


 黒羽織に浅葱の袴。

 声を発すれば少年のようだが、その目は異様に静かで、年齢以上の冷たさを宿している。


 名前は——葵(あおい)。


 本来は“華族の娘”だった。

 だが家は幕府の粛清で断絶。

 幼い葵を拾ったのは、表に出ない諜報組織「隠座」だった。


 世間には存在しない影の集団。

 忍者でもなく、新撰組のような武威でもなく、

 “情報”だけを扱う亡霊たち。


 葵は男として育てられた。

 理由はただひとつ——

 女の身では任務の幅が狭いから。


 葵本人も、もう“女として生きる”ことを考えたことはない。


 


 その夜、葵は隠座の師である老忍から任務を受けた。


「葵。長州藩士の高杉晋次郎が、禁裏に密書を送ろうとしておる。

 これを阻止し、密書の内容を奪取せよ。

 相手は“白百合の毒”と呼ばれる女と組み、動いているらしい」


「……白百合の毒?」


 葵の目がわずかに揺れる。


「はい。時尾殿は……かつて隠座におられた先輩。

 失踪したと聞きましたが」


「裏切ったのだ。

 生きて会えば、いずれ殺すことになる」


 葵は返事をしなかった。


(あの時尾さんが……裏切る?)


 時尾は、唯一“女性という立場でありながら誇りを持っていた”先輩だった。

 葵にとっては、女であることを否定しないでくれた数少ない存在。


(時尾さんが……敵になるなら……)


 胸の奥に重しが沈んだ。


 


 夜の雨の中、葵は高杉晋次郎が潜伏する旅籠に潜入した。

 外から忍び込むのではなく、変装して客として入るという方法を取った。


 年齢を少し上に見せ、声を男として低く整え、町人のふりをする。


(目標は密書……そして、時尾さん)


 旅籠の中には長州浪士たちが騒いでいたが、その奥へ進むほど、空気が重くなる。

 ただの浪士ではない“化け物”がいる気配。


 奥の部屋。

 襖が静かに開いた——


 そこにいたのは、黒漆の箱を手にした男と、白い肌の女。


 晋次郎

 時尾


 二人の視線が、葵へ向いた。


「ほう……またひとり、凡俗ではない者が来たな」

 晋次郎が笑う。


 時尾の目が細くなる。

 葵の変装を、一瞬で見抜いたのだ。


「……その目……隠座の子ね?」


 葵の背筋が震えた。


「やはり……時尾さん……!」


 言葉が漏れた瞬間、晋次郎の刀が葵の喉元へ走った。


(速い!)


 葵は紙一重で避け、床を滑って距離を取る。


「名を言え」

 晋次郎の声は穏やかなのに、殺気だけが濃い。


「……葵。隠座の……諜報員だ」


「ふむ。では“殺す側”として来たわけだ」


 時尾が静かに口を開く。


「葵……帰りなさい。

 あなたはまだ死ぬには早い」


 その言葉に、葵は激情に似た憤りを覚えた。


「どうして裏切ったのです、時尾さん……!

 あなたは、隠座で唯一……“私の生き方を肯定してくれた人”だった!」


 時尾の目にわずかな影が落ちる。


「葵。それが理由よ。

 あなたが“影で死ぬ”と分かっていたから。

 私はあなたを守れなかった」


 葵の手が震えた。


「あなただけ生き延びるつもりですか……!」


「違う。私は——」


 ──その瞬間、晋次郎が前に出た。


「もうよい。

 あとは、“影の継承”がどちらに渡るかだ」


 晋次郎の刀が抜かれる。

 時尾も短刃を構える。


 葵だけが、まだ構えを取れずにいた。


 主を失った隠座の後継者として生きるのか。

 それとも、時尾という“裏切りの先輩”を信じるのか。


 晋次郎が一歩踏み出す。


「さあ、葵。選ぶがいい——」


 幕末の影を継ぐ者として、どの道を行くのか。

 葵の答えが、この国の“裏の歴史”を変える。



慶応四年正月。

 鳥羽・伏見で、ついに歴史を分ける戦が始まった。


 薩長を中心とした新政府軍と、旧幕府軍。

 大砲の轟音が京の空にこだまし、火の粉が夜空を真っ赤に染める。


 その火の海を、黒装束の影が駆け抜けていた。


 葵。


 隠座の諜報員として、幕府側につき、

 “新政府軍の作戦書の奪取”という危険な任務を受けていた。


(高杉晋次郎が動いている……となれば、時尾さんも……)


 そう思わぬ日はない。

 いや、今の葵が影として生きている理由の一部は、

 時尾が去ったあの日の“傷”に他ならなかった。


「……時尾さん。

 いつか必ず、その理由を聞きます」


 炎の中、葵は冷静に、しかし静かに誓った。




 夜。

 烏丸を越えた新政府軍の陣地に、葵は潜り込んだ。


 火薬の匂い、負傷者の呻き、武士たちの怒号。

 全てが混じり合い、地獄のような混沌が広がっている。


(情報本部は……あそこ)


 葵は変装し、負傷した新政府軍の使者のふりをして本部に近づいた。


「作戦書が……火に……!」


 偽の声で叫ぶと、警備兵たちは混乱し、葵を中へ通した。


(いける……)


 机の上には作戦書が丸見えだった。

 手を伸ばしたその瞬間——


「葵。

 ……その手を離しなさい。」


 声がした。


 血の気が引く。


 この世界でその声を間違える者はいない。


 時尾。



 振り返ると、そこにいたのは白い着物に黒羽織を重ねた女。

 炎の明かりに照らされ、影が揺れている。


 美しく、静かで、

 しかし“敵として立つ”時尾の姿。


「……時尾さん……」


 葵の喉が引きつる。


「新政府軍についたんですか」


「違うわ、葵。

 私はただ、“あなたを死なせない道”を選んだの」


 時尾は一歩、歩み寄る。


「隠座は今、幕府とともに沈んでいく。

 あなたはそこにいたら死ぬだけ」


「私の生き死には、時尾さんに決められたくありません!」


 葵は短刃を構えた。

 だが心が震える。

 目の前にいるのは、かつて唯一“葵を肯定してくれた人”だ。


 時尾の声は静かだが、熱を帯びていた。


「葵。

 あなたは女として生きる必要はない。

 影として、男として、好きに生きなさい……

 でも、死ぬのだけは駄目」


 その言葉に、葵の胸が痛いほど跳ねた。


「時尾さん……どうして私のことを……」


「あなたは、私の“後継者”。

 私が捨てた影の道を、あなたに背負わせてしまったから」


 時尾が懐に手を伸ばした瞬間——


「動くな!」


 新政府軍の兵士たちが駆け込み、葵に槍を向けた。


(まずい……!)


 葵が跳躍し逃げると同時に、時尾が兵士の腕を払う。


「この子は——殺させない!」


「時尾さん!?

 あなた、新政府軍の側じゃ……!」


「私は誰の側にもつく気はない。

 ただ、あなたが死ぬのを見たくないだけ!」


 兵士が叫んだ。


「裏切り者だ!捕えろ!」


 時尾は即座に葵の手を掴み、炎の中へ飛び込んだ。


「葵、走りなさい!」


「……っ、はい!」


 二人は息を合わせ、火と煙の中を駆け抜けた。




 陣地を離れ、月明かりの川沿いに出た頃には、

 追っ手の姿はもうない。


 葵と時尾は肩で息をしながら立ち止まった。


「……時尾さん。

 あなたは結局どこに属しているんですか」


 葵は問いただす。

 戦火で赤く染まる川を見つめながら、時尾は答えた。


「私はもう、隠座にも、幕府にも、新政府軍にも属していない。

 ただ……一人の女として、葵の生き方を見届けたい」


 葵は目を伏せた。


「そんな理由で……敵陣から私を助けたんですか?

 死ぬかもしれなかったのに」


「あなたが死ぬよりはましよ」


 その言葉が、葵の胸に刺さる。


(時尾さんは……

 私のために“影を捨てた”の?)


 時尾は静かに微笑んだ。


「葵。

 あなたは、影の時代が変わる瞬間にいるの。

 幕末の影は滅び、明治の影が生まれる」


 その目は優しくも厳しい。


「その新しい影を継ぐのは——あなたよ」


 葵の心が震えた。


「私は……あなたみたいになれますか」


「なれるわ。

 でもね、葵……」


 時尾はそっと葵の頬に触れた。


「あなたは私よりも、ずっと強くなる。

 あなたの影は、時代を越える影になる」


 その優しい手に触れた瞬間、

 葵の胸に押し殺してきた想いが溢れそうになった。


「時尾さん……私は……」


——と、言いかけた時、

遠くで銃声が響いた。


 時尾は悲しげに微笑む。


「行きなさい、葵。

 あなたの影はまだ終わらない」


 時尾が袖を振り、夜風に消えるように姿を消した。


 葵はその場に立ち尽くす。


(時尾さん……

 あなたは、どこへ向かうんですか……)


 月に照らされた葵の影は、

 ゆっくりと長く、長く伸びていった。


明治二年、五月。

 蝦夷・箱館(はこだて)。


 雪解けの冷気がまだ残る北の地に、旧幕府軍の最後の砦・五稜郭が築かれていた。


 そしてその外。

 凍てつく海風の中に、一人の影が馬を止めた。


 葵。


 変装の黒羽織をまとい、髪を短く束ね、

 かつてよりもずいぶん“男らしい影”へと変わっていた。


(ここが……幕府の最後の地……)


 葵は馬を降り、雪を踏みしめながら息を吐く。

 隠座はすでに瓦解し、

 今は新政府の密命で“旧幕府の残党と、その協力者の暗号書類を回収”する任務を負っていた。


 だが本当の理由は別にある。


(時尾さん……どこにいるんですか)


 時尾が「北へ向かう」と聞いてから、

 葵の胸の奥に沈んでいた“宿題”が再び疼いていた。


——あなたの生きる道を守りたい。


 しかし、それはもう叶わない願いだった。




 その夜、葵は五稜郭内へ潜入した。

 旧幕府軍の松前兵や新選組の残党が見張りに立っているが、

 葵の影の技は誰にも知られず夜に溶ける。


(暗号書類は……この奥)


 だが、そこに先客がいた。


 襖の向こうで紙が捲られる音。

 微かな香——白百合の香。


 葵は息を呑む。


(……まさか)


 襖をそっと開ける。


 その部屋に、白い着物の影がひとり。


「遅かったわね、葵」


 振り返ったのは——

 かつての師であり、敵であり、葵が最も追い続けた影。


 時尾。




「……どうしてここに?」


 葵が問うと、時尾は微笑みもせず答えた。


「ここには、旧幕府と新政府が“どちらにも見せたくない史書”がある。

 その行方を巡って、あなたと私は同じ場所に来た……ただそれだけよ」


「あなたは旧幕府の味方を?」


「違う。

 私はただ静かに生きたいだけ……

 でも、この国は私を静かに生かす気がないみたい」


 そう言うと、時尾は巻物を葵に投げた。

 葵が受け取ると、重く湿った紙の感触が指に伝わる。


「これは……?」


「“影の台帳”。

 幕府が雇っていた隠密や密偵の名簿。

 新政府に渡れば、あなたも——私も、生きていられないわ」


 葵の手が震えた。


(つまり、私は……“消される側”の人間……)


「どうするつもりですか」


「焼く。

 この国から“影”という存在ごと消すために」


 その言葉に、葵の胸が強く揺れた。


「でも……

 影がいなければ、どれだけの流血が未然に防がれないか……!」


 時尾は静かに首を振る。


「影がいたから救われた命もあるけれど、

 影がいたから奪われた命も……多すぎた」


 時尾の瞳が揺れる。


「葵。あなたに、私のような“呪い”を背負わせたくないの」


「時尾さん……」


 言いかけたとき、外から銃声が響いた。


「旧幕府軍の残党だ! 敵が潜り込んでいるぞ!」


 時尾が振り返る。


「急がないとね」


「逃げるんですか?」


「違う。

 あなたと——決着をつけにきたの」


 その言葉に、葵の心臓が大きく鳴った。




 二人は五稜郭の外、雪の積もる裏庭へ出た。

 月光が反射して白銀に輝く。


 時尾が短刃を抜く。

 葵も静かに刀を構えた。


「ここで……戦うんですか」


「あなたが生きるためよ。

 私を倒せば、あなたが“新しい影”として生まれる」


「あなたを倒すなんて……できません」


「なら、私が死ぬわ」


 時尾は雪を踏み一歩近づく。


「あなたの影は、私を越えない限り、前に進めない」


 葵は涙の滲む視界の中で、強く足を踏み込む。


「……ならば!

 私も本気で、あなたを倒しにいきます!」


 かつての師弟。

 今は敵味方。


 雪煙が舞う中、二人の刃が交差した。




 何度も刃がぶつかり、

 時尾の袖が裂け、葵の腕から血が流れる。


(やはり……強い……)


 だが、葵は気づいていた。


 時尾は……本気ではない。


(どうして……本気で殺しにこないんですか)


 激しい連撃の中、葵はついに叫ぶ。


「なぜ本気を出さないんですかッ!」


 時尾の動きが一瞬止まった。


 葵はその腕を捉え、地面へ押し倒す。

 雪の上、二人が向かい合うように倒れ込む。


「教えてください……

 あなたはなんで……私を殺さないんですか」


 時尾は、雪の冷えよりも静かな声で答えた。


「……あなたが……私の“希望”だったから」


 葵の胸が大きく揺れた。


「私は影として生き、影として捨てられた……

 けれどあなたは違う。

 あなたは、“光に近い影”になれる。

 だから……私の手で殺したくないの」


 その胸中を打ち明けた時尾の目に、

 初めて弱さが滲んでいた。


 葵はゆっくりと手を離した。


「時尾さん……生きてください。

 私のためにじゃなくて……

 あなた自身のために」


 時尾の唇が震えた。


「葵……あなたは本当に……強くなったわね」


 空には、まだ雪が舞っていた。




「行きなさい、葵。

 あなたの道を進みなさい」


 時尾は踵を返し、雪の闇へと向かう。


「時尾さん!

 あなたは……どこへ?」


「もう、この時代には居場所がないわ。

 だから——新しい影を探しに行く」


「また……会えますか」


 時尾は少しだけ笑って答えた。


「会いたければ、探しなさい。

 影は、影に呼ばれるものよ」


 そして時尾は雪の中へ消えた。


 葵はしばらくその場所に立ち尽くし、

 その場で静かに刀を鞘に納めた。


(時尾さん……

 私は、あなたの影を継ぎます——

 でも、あなたのようにはならない)


 新政府軍が迫る音が聞こえ、葵は振り返る。


 薄曇りの空に、

 葵の影が長く、迷いなく伸びていた。


明治四年、東京。


 瓦屋根とガス灯の街並みが混じり合う奇妙な都市。

 髷を落とした男たちが洋服に身を包み、

 “新聞”という新しい武器が世論を動かす時代。


 そんな華やかな表の裏で、

 一人の若き影が音もなく歩いていた。


 葵。


 隠座が瓦解し、幕府も消え、

 彼女は民籍を偽り、“戸籍上は男性の官吏”として新政府に潜り込んでいた。


 しかし、その本当の役目は——


「新政府の裏側に潜む“影の芽”を見つけ、

それを利用し、育て、統べる者」


 つまり、

 明治政府の新しい諜報網の創設者である。


(時尾さん……

 あなたの影を継いで、私はこの時代を生きる)


 彼女の胸には、あの箱館で交わした言葉がまだ温かく残っていた。




 夜半の大蔵省の奥。

 葵は近代的な机の前で、新政府高官たちと向かい合っていた。


「……君は、なぜ“影の組織”の必要性を強く主張するのだ?」


「刀の時代は終わりました。

 しかし“情報の戦い”はこれから始まります。

 外国の諜報組織を見れば分かるはずです」


 葵は落ち着いた声で言う。


「英国には秘密情報部、

 ロシアには密偵網、

 中国には暗行者がいます」


 高官たちは顔を見合わせた。


「では……日本にも?」


「はい。この国も同じく、

 表で語れない情報戦が始まります」


 葵は書類を机に置く。


“諜報、潜入、暗号解析、対諜報を担う新組織”

名称案:「内務省・警務局隠密課」


「ふむ……しかし、なぜ君が?」


「民間の裏社会と交流があり、

 幕末の諜報にも精通している者は多くありません」


 葵は淡々と話す。


「私は、適任です」


(時尾さん……

 あなたから教わった全てを、この時代に活かします)




 それから数ヶ月後。


 新政府は正式に、「諜報専門部署」を作ることを決めた。

 名前は変わったが、実質は葵が提案した“影の組織”だ。


 発足当夜。

 葵は誰もいない部屋で、背筋を伸ばした。


「本日より、

 私は 影の長(おさ)・葵 となる」


 その手の中には、

 時尾から託された古い短刃があった。


「……時尾さん。

 私はもう、あなたの後を追うだけの影ではない。

 この時代に、私が必要だと証明してみせる」


 葵は静かに誓うように短刃を握った。




 新政府が最も恐れていたのは――

 “幕末の残存諜報組織”である。


 隠座、密宗党、浪士影連……

 国家の過渡期には、古い影が新しい影を喰おうと蠢く。


 葵は最初の任務として、

 密宗党の内部書簡の奪取を命じられた。


 夜。

 京橋の裏町に潜入した葵は、屋根の上から静かに周囲を見ていた。


(この匂い……

 時尾さんの残した影の気配がある)


 まるで時尾の残像が、陰にひそむように感じる。

 葵は胸の奥で息を整えた。


「師匠……

 あなたの時代は終わったかもしれない。

 でも、私はあなたの“志だけ”を受け継ぎます」


 葵が飛び降りようとしたその時——


「君は相変わらず、危なっかしいわね」


 背後。

 闇の中から、懐かしい白い影が現れた。


 ――時尾だった。




「時尾さん……!」


 葵は一瞬、感情が溢れそうになった。

 しかしその前に、時尾は指を口元に立てる。


「しー……葵。

 ここは敵地よ。喜んで抱きついてる場合じゃない」


「い、抱きつきません!」


「ふふ。

 でも、会えて嬉しいのはお互い様でしょう?」


 月明かりの中で、時尾は変わらず美しかった。

 しかしその瞳は、以前より鋭く、深い影を湛えている。


「あなた、新政府の影になったんでしょ。

 それ……本当に望んだ未来?」


「……はい。

 この時代の影を作るため、私はここにいます」


 時尾は寂しげに微笑む。


「なら……私との道は、また離れるわね」


「いいえ」


 葵は時尾の目を見る。


「時尾さんの影がなければ、私はここにいませんでした。

 だから……あなたの影は、今も私の中に生きています」


 一瞬、時尾は言葉を失った。


 けれどすぐに、柔らかい声で言う。


「葵……

 次は敵として会うかもしれないわ」


「構いません。

 あなたを殺せと言われたら、私は拒みます」


「ふふ……本当に、強くなった」


 時尾は風のように姿勢を変え、屋根から飛び降りた。


「葵。

 あなたが作る“明治の影”を楽しみにしているわ」


「時尾さん……!」


 葵が手を伸ばしたときには、

 時尾の影はすでに消えていた。


 しかし、葵ははっきりと感じた。


(私は……もう躊躇わない。

 この時代を生き抜く“影の長”として、道を切り開く)


明治の夜風が、二人の影を違う方向へと運んでいった。

明治五年、横浜。


 港には蒸気船が並び、

 黒煙が空に広がり、

 洋服に身を包んだ日本人たちが英語やフランス語を交えて話している。


 その中を、ひとりの若き官吏が歩いていた。


 名は——葵。


 表向きは内務省の書記官。

 しかし裏では、


「明治政府の影の長」

として、日本の未来を守る諜報網を動かす存在。


(この港……

 異国の匂いと、陰の匂いが入り混じっている)


 彼女の眼は、表の繁栄の裏に潜む“影”を正確に捉えていた。




 その日、葵の元に極秘文書が届いた。


横須賀造船所より、軍艦の設計図が盗まれた。

犯人は国外へ逃亡した可能性が高い。


 日本が西洋に追いつくための象徴とも言える軍艦技術。

 それが海外に流れれば、日本は一瞬で立場を失う。


 葵は眉をひそめた。


「……やはり来たか。

 “海外産業スパイ”が」


 複製された設計図には赤い印章が押されている。


 見慣れない刻印——狼の横顔。


(スイス、プロイセン、ロシア……

 この印章は“影の傭兵団”が使うもの)


 つまり、

 国に雇われたスパイではなく、国境を越えて暗躍する職業影。


 葵は立ち上がり命じた。


「横浜港の閉鎖準備を。

 犯人はまだ日本を離れていない」




 夜。

 横浜港はいつもより静かで、警備兵が緊張感を漂わせていた。


 葵は影の部下・三名を連れて港に潜伏する。

 海から吹く風は冷たく、霧が深い。


「この匂い……」


 葵は敏感に察知する。


 火薬、油、そして葉巻。

 異国の匂い。


「来る……!」


 霧の中から現れたのは三人の男たち。

 長い外套を羽織り、帽子を深くかぶり、

 銃を懐に忍ばせた異国の影。


 その真ん中の男が低く言った。


「日本の“影の長”……

 ようやく出てきたか」


 その日本語は不自然だが流暢だった。


 葵は構えを取る。


「設計図を返しなさい。

 あなたたちの目的は金でしょう?」


「金もある。

 だが——依頼主は『この国を二十年遅らせろ』と言っている」


(やはり……

 この国の近代化を恐れる列強の影か)


 葵は短く息を整えた。


「あなたたちの好きにはさせません」


「……なら、ここで死ね」


 異国の男は銃を抜き放つ。

 葵はその瞬間、地面を蹴った。


 銃声が霧を裂く。




 葵の影は銃弾よりも速く動いた。

 横へ転がり、男の懐に入り、短刃で腕の腱を切り落とす。


「ぐッ……!」


 葵の動きは鋭く、正確で、一切の迷いがない。

 影の長として鍛え上げた“殺しの型”が異国の男を圧倒する。


 しかし敵はプロ。

 二人目が銃を構える。


(間に合わない!)


 その瞬間——

 白い影が横から斬り込んだ。


「甘い!

 日本の影を侮るな!」


 敵の銃を払い、足を払って倒す。


 その声。

 その動き。


「——時尾さん!」


 葵の喉が震える。


 白装束の影が微笑んだ。


「葵。

 あなたは影の長になっても、まだ危なっかしいわね」


「時尾さん……どうしてここに?」


「あなたが“この時代の影”を作るというなら……

 少しくらい力を貸してあげるわ」


 葵の胸が熱く揺れた。




 残るは一人。

 影の傭兵団のリーダー格。


「……ふむ。

 噂に聞いた“白百合の毒”と“新政府の影の長”が揃うとは」


 時尾は眉をひそめる。


「あなたたち傭兵団は、金のためにこの国を操ろうとする……

 許せないわ」


 葵が構える。


「設計図を渡してもらう。

 あなたたちが持つべきものじゃない」


 男は笑う。


「やれるものならやってみろ。

 “影の時代は終わった”と証明してやる」


「終わらないわ」

葵は静かに言う。


「影は、姿を変えて生き残る。

 それが私たちの証です」


 同時に二人は踏み込んだ。


 葵は前へ。

 時尾は横へ。


 まるで息を合わせたような連携。

 傭兵団の男は一瞬で追い詰められ、刀を落とす。


「……馬鹿な、異国の影を上回るとは……」


「日本の影は、あなたたちの想像よりずっとしぶといのよ」


 時尾の声は甘く冷たい。


 男が倒れ、設計図が雪の上に落ちた。


 葵はそれを拾い上げ、胸に抱く。


(守り切った……

 この国の未来を)




「時尾さん……

 助けに来てくれたんですか?」


 葵が問うと、時尾は微笑した。


「助けに来たわけじゃない。

 ただ……葵がどんな“影”に育ったのか、見に来ただけ」


「どうでしたか」


「……誇りに思うわ」


 時尾の声が風に溶ける。


「私はもう、あなたの前に長くはいられない。

 この国には“新しい影の時代”が来る。

 その中心にあなたがいる」


 葵はそっと時尾の手を握った。


「時尾さん。

 あなたは……私にとって影そのものです。

 私の影の根源です」


 時尾はその手を握り返す。


「だからこそ、あなたは私を越えなさい。

 世界の影と戦う、明治の“新しい影”として」


 葵は深く頷いた。


「約束します。

 私は必ず、あなたを越える影になります」


「ふふ。楽しみにしているわ、葵」


 時尾は深い霧の中へ消えた。


 葵は彼女の残り香と温もりを胸に、

 自分の道を再確認した。





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