意識してほしいのに
私は、30分ほど気絶していただけのようだった。
血で濡れた服も、着替えさせられていた。
「良かった……。
美崎に怪我がなくて。
ほんと、心臓止まるかと思ったわ」
「仰せの通りでございますね、彩お嬢様」
帰りはリムジンらしい。
──あれ?
矢吹……手、怪我してない?
右腕の止血は確認したけど……左手の甲、赤くにじんでる。
まさか――さっきの弾、こっちも掠ったの?
エスコートされた瞬間、彼の手を軽く引っ張った。
「矢吹。
ちょっと手、見せなさい」
鞄にあったリボンを取り出し、ためらわず巻く。
「お嬢様……お気遣いは本来、越権にございます。
私などが、そのような──」
「何よ、文句?
私のせいなんだから。
……一応、ね」
“ 一応 ” を強めに落とす。
熱くなった頬をごまかすみたいに、窓の外へ顔を向けた。
バックミラー越しに、矢吹の目が、ふっと柔らかく揺れた気がした。
「まったく。
無茶しないでよ。
藤原の二の舞なんてごめんだから」
「肝に銘じております、彩お嬢様」
……麗眞ったら、良いところだけ持ってってさ。
パパそっくりなんだから。
私にも少しは見せ場、渡しなさいよ。
まあ……ちょっとだけ、カッコよかったけど。
ほんの少しふて寝するつもりが、気づいたら熟睡していた。
目を開けると、柔らかい天井。
「あれ……ここ?」
「フランスの宝月の別荘でございます」
あ、そうだ。
今フランスにいるんだった。
日本の屋敷と違って、こっちはシックなゴシック調。
派手さはないけど、落ち着く。
お風呂でゆっくり体を温める。
遅い夕飯は、恋しくなった和食を出してもらった。
「今日は早めに寝るわ。
貴方も休みなさい。
傷、開いたら大変よ?」
「彩お嬢様のご慈悲、痛み入ります。
……どうか良い夜を」
普段は寝つき悪いのに、この日はすぐに眠れた。
よほど疲れていたのだろう。
「おはよう」
「おはようございます、彩お嬢様」
下腹部がズキン、と重く締め付けた。
深夜から女の子の日が始まったせいで、ろくに眠れなかった。
こんなの……矢吹に知られたら絶対“安静”とか言われるわ。
今日は美崎のお見舞いに行くんだから。
倒れてなんていられない。
「矢吹。
今日は“普通の”服ね。
美崎に会いに行くから」
「かしこまりました」
矢吹が持ってきたのは、黒襟のついたワンピース。
身頃はベージュ、スカートは黒。
……色、配慮したわね。
もしかして、勘付いているのかしら?
わざわざ口に出さないとこ、逆に腹立つわ……
「これなら大丈夫そう。
助かるわ」
振り返った隙に急いで着替える。
「どう?
矢吹」
「大変よくお似合いでございます」
メイクや髪を整えてもらっている間に、面会時間をとうに過ぎてしまった。
「矢吹!
朝食抜きでいいから、リムジン回して!」
「……承りました、彩お嬢様」
「では、参りましょう」
その瞬間、また腹痛が波のように襲い、呼吸が浅くなる。
「彩お嬢様?」
「大丈夫よ。
気にしなくていいってば」
笑顔を作った。
矢吹にだけは、絶対バレたくない。
病院に到着し、金属探知を通って廊下を進む。
その時――懐かしい横顔が見えた。
あれ……あの歩き方。
梓さん?
私が小学生の頃、夏祭りの帰りにアイス奢ってくれた、あの
「梓さん……ですよね」
すれ違いざま声をかける。
「あら?
彩ちゃん?
まあ……ずいぶん素敵になったじゃない。
ほんと、社長令嬢って感じ」
「そ、そんなことないです……」
「あるのよ。
自信持ちなさい」
梓さんは少し笑って、目だけが真剣になった。
「美崎ね。
あの子、ずいぶん過酷な環境にいたみたいだけど……
根っこは変わってないわよ?
あの子らしさは、消えてなかった」
「梓さん……」
「じゃあ私は急ぐから。
ごきげんよう、彩ちゃん」
矢吹が小声で尋ねる。
「彩お嬢様。先ほどの方は……?」
「近所のお姉さんよ。
不動産を経営してて、宝月家にもよく助言してくれたの」
「そうでございましたか。
……こちらが美崎さまのお部屋です」
ノックして入る。
「美崎!?
ちょっと、大丈夫なの!?」
「私は大丈夫よ。
私の方こそ……ごめんなさいね?
彩に面倒掛けて」
「美崎……」
声が出た瞬間、胸の奥が痛くなった。
安堵なのか、怒りなのか、懐かしさなのか、自分でも分からない。
「あ、そうだ。
貴女、私の大学にこれ、忘れてたわよ?」
美崎が差し出したのは──矢吹にいつか貸そうと思っていた『“経営・株式の本”』。
「これ……貴女が持ってたの?」
「そうよ。
貴女の家の株価が大暴落した翌日ね。
私も……自分の家の系列会社の株価を大暴落させたわ」
さらりと言うけど、全然さらっとじゃないわよ。
「この本、とても役に立ったわ。
私みたいに株の知識ゼロの人間でも、株価操作できたんですもの」
「ふふ。
美崎みたいな人にそう言ってもらうために書いたんだから……
役立ててもらわなきゃ困るわ」
本当はもっと言いたい。
“無茶するんじゃないわよ”
“独りで背負うな”
でも、今はあえて飲み込む。
「あ、気をつけてね?
彩。
あの忌々しい義母のことよ。
これだけで懲りるとは到底思わない」
「……分かったわ。
ありがとう」
病院を出ると、外には意外な人物が待っていた。
「梓さん!?」
「あら、彩ちゃん」
少しも変わってない。
落ち着いた目と、全部理解しているみたいな笑み。
「用事はもう終わったのかしら?
それなら、私の別荘にお招きしてもいいけれど」
「あら、ちょうど良かったわ。
泊まるホテル、探していたの」
この完璧なタイミングは、運命かしら。
「矢吹。
梓さんをお乗せして?」
「かしこまりました」
「あら?
執事さん、変わったのね。
前は確か──
胸がきゅっと軋んだ。
「ごめんなさい……梓さん……
その話だけは、今は……やめて頂戴」
「あら、ごめんなさいね?
お気を悪くした?」
「いえ……」
ヤバ……藤原の名前聞いただけで、涙出そう。
こんなところで、泣くわけにいかないのに。
「申し訳ございません、梓さま。
いましばらく藤原の話題は……ご配慮いただけますと助かります」
矢吹の声は穏やかで、いつも通りなのに。
そこに“嫉妬”がひとかけらもないことが、逆に胸に刺さる。
別荘に着いて、矢吹が門の鍵を開けに行く。
夜風が冷たくて、やけに静かで──
だから、ついこぼれた。
「……何で生きてるのよ、藤原。
バカ……」
「ん?
何か言った?」
「いえ……」
梓さんの目だけが、わずかに揺れていた。
全部聞こえてたんだ。
夕食は久しぶりに梓さんと二人。
昔みたいに他愛ない話で盛り上がった。
そして──
「ねぇ、彩。
何かあったら相談しなさいって、昔から言ってるでしょ?」
「どうしても……話さなきゃダメですか?」
「私、そんなに頼りない?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
事が事だし。
藤原のこと、美崎のこと、私の気持ち。
全部ごちゃごちゃに絡まっていて、どこから話せばいいか分からない。
「話したくないなら無理には聞かないわよ」
梓さんはそう言いながらも、私の目をまっすぐ射抜いてきた。
「まあ一つ言えるのはね。
貴女の元執事は──何か理由があって美崎の執事になったってこと」
「……理由?」
「貴女が気にしてる“事故”。
巻き込まれたのが別の人間、って可能性だってあるでしょう?
もしくは……藤原さんと関わりある人間なのかもね」
この人……やっぱりすごい。
私がまだ頭に入れられてないパズルを、梓さんは一瞬で組み上げてしまう。
「人は変われるわ。
関わる人によって、いい影響も、悪い影響もね」
梓さんの声はゆっくりで、落ち着いていて。
余計に、弱ってる胸に言葉が突き刺さる。
「美崎は悪い影響を受けながら、それでも必死に環境から抜け出そうともがいてる。
彩、貴女はどうなの?
少し丸くなったけど……
まだ、人と関わる時に一歩踏み出せない癖、残ってるわね?」
図星すぎて、言葉が出なかった。
「そんな状態で、次期当主になる弟のサポート……できるのかしら?」
息が止まりそうだった。
「さ、もう寝ましょ。
……ところで彩?
何でこんなとこまで来たの?」
逃げ道を作ってくれるところ、本当ずるいわよね。
変わっていないわ、そういうところも。
「動物病院に研修行ってる、出来の悪い獣医の様子を見に来たのよ」
「へぇ……
出来が悪い子ほど、彩は気にするのよね?」
「ち、違いますけど?」
「素直じゃないわねぇ」
「ねぇ、行かないの?
病院にいるんでしょ?
彩ちゃんにとって──最愛の人」
「梓さん!!
最愛とか……ないですから!」
「……あら、そう?
そんな風には見えなかったけど」
心臓の音がうるさい。
「でも、顔を見せてあげるだけでもいいんじゃない?」
「でも……どんな顔して行けばいいのよ。
今さら。
会って、“好きでした”なんて言えるわけないじゃない……」
思わず視線をドアのほうへ向ける。
矢吹が控えていた。
藤原の話をしてるのに──
矢吹は、眉ひとつ動かさない。
「参りましょうか。
お嬢様の望みを叶えることが、執事の務めでございますので」
……ねえ。
何よ。
何でそんなに、いつもと変わらない声色なのよ。
ちょっとくらい、嫉妬してくれてもいいじゃない。
その無表情が、少しだけ……悔しかった。
「むしろ夜も遅いのですから、明日のほうがよろしいのでは?」
「……そうしてやるわ。
仕方ないから。
そろそろ寝るわ。
おやすみ、矢吹」
私が矢吹を部屋から追い出すのを、
梓さんはまるで“娘を見守る母親”みたいな目で見ていた。
「本当はさ、心配されて嬉しいんじゃないの? 彩」
「梓さん……!
そんなことないですから!」
「嘘おっしゃい。
藤原さんの話をわざと出して、矢吹さんの気を引こうとしてる。
小学生の男子の恋愛じゃないんだから」
「!?」
「揺れてるのよ、彩。
ふたり人の男性の間で」
胸がドクン、と跳ねた。
「美崎もね。
名前も知らない“昔会った初恋の人”を探しているらしいの。
……私は、彩にも美崎にも幸せになってほしいのよ」
梓さんはそれだけ言って、やさしく微笑んで眠りについた。
部屋に残った私は──
胸の奥のモヤモヤが晴れないまま、ベッドに腰を下ろした。
「はぁ」
……もう少しだけ。
この“曖昧な気持ち”のままでいたい。
矢吹を男性として意識している自分を、
今ここで認めたら……
きっと、戻れなくなる気がしたから。
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