会の終わりと、罪滅ぼし
酔いが回ってきたのか、世界が少しだけ柔らかく見えた。
シャンデリアの光がゆっくり揺れて見えるたび、胸の奥がふわりと緩んでいく。
「彩お嬢様、こちらへ」
矢吹の声は、酔いに霞んだ意識の中でも不思議とよく響いた。
低く、落ち着いていて、冬の空気に温かい蒸気を落とすような声。
腕にそっと添えられた彼の手は、私の歩幅に合わせるように、なめらかに導いてくれる。
ああ……もう、歩くのも億劫。
その手に触れていると、なぜだか嫌ではなかった。
会場の喧騒が遠くなり、ホテルの大理石の床がかすかに濡れたように光って見えた。
それが私の視界のせいなのか、本当に光を吸っているのか、それすら判断できない。
矢吹は、院長たちに何か静かに告げていた。
場の空気を乱すこともなく、誰にも違和感を持たせず、私を連れ出すための“完璧な口実”を。
ほんと……よく気が回るわね……
リムジンに乗り込んだ瞬間、座席の柔らかさが体全体を包み込んだ。
冷房は身体を冷やしすぎない心地よい温度で、
車内には微かにジャスミンとレザーが混ざった香りが漂っている。
窓の外を流れる街の光は絵の具のように溶け、
そのすべてが夢の中の景色のようだった。
「……ごゆっくりお休みください」
耳元で落ちるその声が最後に聞いた記憶。
気付けば、私は深い眠りへ沈んでいった。
矢吹によれば、リムジンの揺れとともに、あっという間に熟睡したらしい。
――目覚めたとき、天井の白い数多のシャンデリアを見て、ここが自分の部屋だと、ようやく思い出した。
「あれ……?
矢吹?」
声は少し掠れていた。
寝すぎたせいか、はたまたお酒のせいか。
ほんの少し、身体が重い。
オレンジ色の豆球の光の中に、矢吹の姿が静かに立っていた。
「ええ。
お目覚めですか、彩お嬢様。
ずいぶん長い間、お眠りになられていたようでございますが」
ふと時計を見ると、とっくに日付は変わっていた。
丁寧に微笑むその横顔。
「そう……そんなに寝ていたのね」
自分でも驚くほど、声が柔らかい。
きっと疲れていたのだ。
今日は、いろいろありすぎた。
「シャワーだけでも、浴びてくるわ」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ、お嬢様」
シャワーの熱い水が肩を伝う。
身体に触れる温度、肌に跳ね返る水滴の感覚──
そのひとつひとつが、緊張を少しずつ溶かしてくれる。
閉じた瞼の裏には、今日1日の出来事が次々とフラッシュバックする。
レストランでのミルクティーの甘さ。
命すら危ういという美崎の言葉。
奈留へのプロポーズの言葉と、彼女の瞳からひとすじ零れた涙。
ジャケットを着せかけられた椎菜ちゃんの、ほんのり赤い表情。
そういえば、今回の準優勝には副賞として、フランスの動物病院で研修を受ける権利がついていた気がする。
せっかくプロポーズが成功したばかりなのに、離れることになるのか。
それも何だか、切ないものがあるだろう。
だが、こればかりは本人の意思だ。
私には、応援することしか出来ない。
シャワーを止め、タオルで身体を包み込む。
ふと、鏡越しに思い浮かべる矢吹の横顔。
あの落ち着いた声で、そっと耳元で囁かれたら――
なんて、ほんの少しだけ考えてしまう自分に、思わず苦笑いした。
鏡の向こうの自分の顔には、まだ少し赤みが残っている。
目を細め、思わず小さく笑む。
今日一日の余韻と、温かい感情が、ゆっくりと胸の奥でほどけていった。
浴室から出ると、ベッド横のサイドテーブルに、頼んでいた資料がきちんと置かれていた。
矢吹はもちろん、完璧に仕上げていた。
「こちらでよろしゅうございますか?
彩お嬢様」
差し出された資料の表紙には、大きくこう書かれていた。
“宝月家が案内! ロマンチック街道”
センスの良さと真面目さが同居したタイトルに、思わず口元が緩む。
「上出来よ、矢吹」
ほんの少しだけ、彼の表情が柔らいだ気がした。
あのバカップル──
いや、無事にプロポーズが成功したしたふたりを婚前旅行に招待するための企画。
今まで鑑識や他の仕事に追われ、病院に関われなかった私なりの罪滅ぼし。
数日後。
矢吹の運転するリムジンに乗り、動物病院へ向かった。
朝の空気は相変わらず茹だるように太陽が照りつけている。
「おはよう。
雅志くん、奈留ちゃん。
今日も相変わらずラブラブね。
部屋の温度が一気に5度上がるわ」
わざと軽口を叩くと、ふたりは同時に照れ笑いをした。
「そういうオーナーは、彼氏とかいないんですか?」
「いるわけないでしょ」
私の瞬速の即答に、彼が呟いた。
「もったいない……」
何がもったいないのよ……。
好きな人なんて――いない、はず。
ふと矢吹に視線を向けた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ、チクリと痛んだ。
……気のせいよね。
「まぁ……イチャイチャしてるのを見るのは好きよ。
私の両親も、そういうのしょっちゅうだから」
ふたりは驚いたように目を丸くした。
「こんなこと話したいんじゃないのよ。
雅志くんと奈留ちゃん。
どうせ奈留ちゃん、近いうちにフランス行くんだし。
下見を兼ねて婚前旅行に行けばいいじゃない」
ホチキスで綴じた三枚の書類を渡す。
“宝月家が送る! ロマンチックスペシャル9日間の旅”
あのあと、題名はさらに良いものへ変えた。
「これって……私たち二人だけ、ですか?」
「もちろんよ」
深く頷くと、奈留の頬がふわりと赤くなり、雅志が息を呑んだ。
ドイツ、スイス、フランス。
九日間の旅がたったの十八万円。
パパのコネは相変わらず化け物じみている。
自分の子どもには甘すぎるくらいが、まぁパパらしい。
「いいのよ。
私、あまり病院の業務に関われなかったから。
その分の償いのつもりなのだけれど……嬉しくないかしら?」
奈留はにっこり笑って、頭を下げた。
「帰ってきたら、ちゃんとお礼しますね」
その素直さが可愛くて、私もつい笑ってしまう。
それくらいのこと、何度でもしてあげる。
恩を返さないような人間には、私はなりたくない。
そう思いながら、いつものように矢吹のリムジンに乗り込んだ。
「あーあ。
明日から少し寂しくなるわね」
雅志と奈留の旅には宝月家から多くの執事が同行するらしい。
その数、30人規模。
いや、いくらなんでも、その人数、いる?
パパとママはMLBを観にアメリカへ飛び、麗眞も忙しいようで、ここ数日、家に帰っていない。
屋敷はいつになく静まり返っていた。
広々とした廊下や、控えめな光の落ちる階段、冷たい空気。
この静けさが、何故か胸にぽっかり穴を開けたように感じられる。
──私だけ、取り残されているみたいだ、と。
「……ふぅ」
小さくついたため息も、側にいる矢吹には聞こえてしまったようだ。
「大丈夫でございますよ、彩お嬢様。
私は、彩お嬢様の側におりますので」
何でもないように言ったその一言。
まるで温かい灯りがともったみたいに、心がほわんと温かくなる。
……ああ、もう。
そんな言い方、反則なんだから。
目の端で矢吹の横顔を見つめ、心の中で小さく笑った。
不意に胸の奥がふわりと熱くなるのを感じながら、私は強く思ったのだった──
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます