祝賀会

 屋敷に戻ると、私は首元にビジューの装飾が施された黒いドレスに袖を通した。



 ウエストには幅広のリボンが巻かれている。


 鏡の中の私は、そのリボンにそっと指を沿わせた。


 締めつけられる感覚が、体のラインだけでなく、心のどこかまでも引き締めていくようだった。


 柔らかい光が窓から差し込み、黒のドレスは淡く銀色を帯びる。


 部屋の空気は少しひんやりとして、緊張と期待の匂いが混ざっていた。


 耳にスワロフスキーのピアスをつけると、シャンデリアの光が跳ね返り、小さな星が生まれたように輝いた。


「さすがは彩お嬢様。


 よくお似合いでございます。


 失礼いたします」


 鏡の前に立つ私へ、矢吹がそっと近づく。


 彼の指先が髪に触れた瞬間、その細く確かな動きに思わず目を閉じた。


 分け目から編まれた一本の三つ編みが、肩先で大きなベロアリボンに留められる。


 彼の手つきは相変わらず無駄がなく、落ち着いた香りとともに私の緊張をすくい取っていく。


「さすが矢吹ね。


 ありがとう」


「そのように主に仰っていただけるとは、執事冥利に尽きます」


「似合うかしら」


「とてもよくお似合いで。


 少々、このまま送り出すには、惜しいくらいでございます」


 そこまで言うなら——素直に“可愛い”と言えばいいじゃない。


 まったく、矢吹という人は。


「早くいつものリムジンを玄関まで回してちょうだい」



「かしこまりました、彩お嬢様。


 すぐに」


 リムジンに揺られて1時間。


 窓の外はすっかり夜の色に染まり、住宅街の無機質な明かりがときどき車内を照らす。


 タイヤがアスファルトを踏む低い音だけが、静かな車内に溶けていた。


「いろいろあったわね、今日は」


 言葉にした瞬間、自分でも今日の疲れがじわりと浮かび上がった。


「ええ、そうでございますね」


「美崎を、どうにかしてあげたいわ。


 あんな子じゃなかったもの」


 窓に映る自分の横顔は、思ったより険しかった。


「その方面は、麗眞さまや私にお任せを。


 潜入されている南さまのご意見も参考になるかと」


「そうね……。


 パイロットの彼を潜入させてるなんて、宝月家も人遣いを考えるべきよ」


 ため息が小さく白んだ。


 夜気の冷たさが窓越しにも感じられる。


 リムジンがゆっくり減速すると、視界いっぱいに巨大な建物が姿を現した。


 夜の帳の中、ホテルはまるで光そのものを纏った城郭のようにそびえていた。


 外壁は全面が磨き上げられたガラスと白金色のパネルで構成されその一枚一枚が夜景を反射している。


 星空と街の光がホテルの表面で溶け合っているようだ。


 重厚な大理石の階段は、まるで王宮の入口のように幅広くい。


 手すりの真鍮は丁寧に磨かれて月光を受けて柔らかく光っていた。


 エントランス周辺には控えめな香りのホワイトジャスミンが植え込まれている。


 それらが微風に揺れるとほのかに甘い香りが漂う。


 その香りすら、“選ばれた客を落ち着かせるため”に計算されているのだろう。


 回転扉の向こうからは、暖かな金色の照明が溢れ出している。


「ねえ矢吹、ここのオーナーって確か、パパの知り合いだったわよね?」


「ええ。


 清水 明日香しみず あすかさまと伺っております」


「そう……」


 胸の奥に、小さな記憶の欠片が浮かぶ。


 パパが昔話すのを聞いた、研究者・清水徹しみずとおる


 宝月家の人間にはお馴染みの盗音機を開発した人物。


 その娘。


「では、お嬢様。


 行ってらっしゃいませ」


「え?


 何でよ。


 矢吹は行かないの?」


 気付けば、彼の執事服の裾を強めに掴んでいた。


 こういうときだけ素直になれない自分が、少しだけ情けない。


「お嬢様は、そんなに私に来てほしいのでございますか?」


「べ、別に……。


 そんなこと言ってないわ。


 ただ……私が飲みすぎて帰れなくなったらどうするのよ。


 あなたがいないと帰れないじゃない」


「私も参ります。


 執事は常に、お嬢様の傍にいるものでございますから」


 耳元で囁かれると、耳が一気に熱を持った。


 そんな近い声じゃなくてもいいのに、もう。



 会場に足を踏み入れた瞬間、空気がピタリと止まった。


 目の前の従業員たちが、一斉にこちらを見つめている。


 まるで時間が固まったかのように動かない。


「……ど、どなた……?」


「新しいVIP……?」


「いや、でもこんな若い――」


 ざわめきが、濁流のように広がっていく。


 私が軽く顎を上げると、その視線が更に揺れた。

「アンタたち、バカじゃないの?


 服と髪型と化粧変えたくらいで、もう誰かわかんないわけ?


 よくそれで仕事できるわね」


 一歩近づいただけで、前列の数人が半歩引いた。


「あ、ああ、オーナー……か…………」


 最前列にいた葦田は、心臓を撃ち抜かれたみたいに目を見開いた。


「えぇぇっ!?!?!??」


 彼は声にならない悲鳴を漏らして腰を抜かしそうになった。


 後ろのスタッフが思わず支える。


「ちょ、葦田さん!?」



「やばい、本当に本人なんだ……!」


 困惑と恐怖と敬意が入り混じった視線が、津波のように押し寄せる。


「噂は……噂は聞いてましたけど……」


「宝月グループの当主の娘さん……

 本当に……本当にオーナーだったなんて……!」


 口を押さえたまま震えている者までいる。


 そういえば院長以外には、財閥の社長令嬢だと伏せていたのだった。


 まったく。


 何を今更、驚くことがあるのかしら。


 料理を取りに行こうと、パンプスで一歩を踏み出した刹那。



 聞き慣れた低い声に、足がぴたりと止まった。



「伏せてたのかよ。


 ったく、姉さんらしいな」


「麗眞。


 何よ、貴方も呼ばれてたのね」


 グレーのスーツに、オレンジの蝶ネクタイ。


 パパ譲りの、180cmないくらいの身長のせいか、なまじ似合って見える。


 麗眞がいるということは。


「いろいろ事情があるんだし、察してあげよう?


 お久しぶりです、彩さん。


 お会いするのはホテル以来ですね」



 よく通るソプラノトーンが場の空気を、より澄んだものにした。


 麗眞が過保護なくらい溺愛する、椎菜ちゃんだ。


 相変わらず、彼女を前にすると麗眞の表情が柔らかくなる。


 椎菜ちゃんは胸元にチュールが施されたペールオレンジのキャミソールワンピースを着ている。


 その布地は、彼女の出るところの出たボディーラインをこれでもかと強調している。


 胸元には控えめなゴールドチェーンのネックレスが光り、耳からはパールが連なるように垂れ下がっている。


「あら、椎菜ちゃんまで、なぜここに?」


「雅志先輩に呼ばれたんです。


 幸せ報告を、見届けてほしい、って」


 何する気よ、アイツ。


 麗眞は、無言で彼女にお皿を手渡している。


 その上には、すでに食べ物が乗せられていた。



「ほんと、過保護だこと」


「優しい、の間違いだろ、姉さん」


 私も、バイキングを楽しむとしますか。


 私も、お皿を手に取り、和洋中の料理の香りに胸を踊らせた。



 食事が一段落した頃、バルコニーに人が集まっていた。


 葦田 雅志と奈留がふたりきりでバルコニーにいる。


 彼女の左手の薬指には、繊細なダイヤが輝く指輪が嵌められていた。



 何?


 何?



「奈留……絶対幸せにするから。


 結婚しよう」


 その台詞で、さすがの私でもピンと来た


 なるほどね。



「私でいいなら、喜んで」


 そう返事を受けた葦田雅志。


 鬼軍曹も、ついに所帯持ちかぁ。


 唇が重なる瞬間、視界が暗く染まった。


「見てはなりません、お嬢様。


 刺激が強すぎます」



 ちょっともう、何なのよ!



 バルコニーでのプロポーズが終わり、会場に温かい拍手が広がっていく。


 奈留の指に光るダイヤ──


 その透明な輝きが胸の奥をふっと揺らした。


 ……いいな。


 素直にそう思った。


 焦りとか、羨ましさというより、もっと静かで、柔らかい気持ち。


 あんなふうに、いつか私も誰かに。


 その相手が、今側にいる矢吹だったら、とふと想像してみる。


 もし矢吹が、あの落ち着いた声で、跪いて、


『お嬢様。


 どうか、私と――』


 悪くない。


「ちょっといいな、って思ったろ、姉さん」


 後ろから、声が飛んできた。


 振り向かなくても、麗眞だと分かる。


 ジャケットは着ていなかった。


 ふと見ると、大学時代の先輩に嬉しそうに声を掛けている椎菜ちゃん。


 その肩には、麗眞のジャケットが掛けられていた。


「過保護すぎ」


「あんな格好、数多の野郎どもの目に触れさせてたまるかよ。


 いくら大学の先輩でもな」


「牽制の仕方が気色悪いわね」



 ……と、そんな中。


 葦田が婚約者の奈留を連れて私のところに歩いてきた。


「あ、あの……オーナー。


 今日は本当に……その、ありがとうございました!」


「なぁに。


 奈留を幸せにしなさいよ?

 


 泣かせたら宝月家の総力を挙げて追い詰めるから」


「え!? 


 え!? 


 や、やめてください!!」


「冗談よ。


 何かあったら言いなさい。


 貴女たちをサポートするなら、宝月家のすべてをいかんなく使うわ」


 奈留が葦田の腕を引き、笑いながら頭を下げた。


「彩さん。


 あの……私、幸せになります。


 絶対に」


「ふふ、そうしなさい。


 応援してるわ」


 後ろで矢吹が静かに微笑んでいる。


「……お嬢様も、きっと」


「なに?」


「いえ、何でもございません」


 ――この夜が、こんなに温かいものになるなんて、屋敷を出る前の私は想像すらしていなかった。

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