執事なら〈彩Side〉
「話、長いわね」
どうしても眠れず、ベッドに横になったまま天井を見つめていた。
考え事というものは、静けさの中でこそ形を持ってしまう。
頭の片隅に置いておきたいはずの思考が、勝手に膨らんで、こちらの意向など気にも留めない。
気分を変えようと、私はベッドから身体を起こした。
このまま無理に眠ろうとするより、熱い湯に身を沈めた方が、余計な雑念も薄れるだろう。
ホテルの大浴場は遅い時間のせいか人も少なく、湯面にはわずかに蒸気が揺れていた。
私はゆっくりと肩まで沈み、目を閉じる。
静かな水音が耳の奥でほどけていく。
──けれど、落ち着きは思ったほど長く続かなかった。
身体の芯に熱がこもり、息が浅くなる。
喉の奥にわずかな渇きを感じたあたりで、ようやく長く浸かりすぎたことに気付いた。
普段は長風呂などしないのに、今日はどうかしていたのだろう。
立ち上がると視界が軽くにじみ、壁までの距離が少し遠く思えた。
……逆上せたらしい。
熱い湯に身を任せるなど、普段からの習慣ではない。
無理をすればこうなるのは当然だ。
ふらつく足取りで廊下へ出たとき、ふと昔の記憶がよぎった。
麗眞が高校生だった頃。
彼の親友だという
逆上せた椎菜ちゃんを見事に介抱してみせた、あの落ち着いた手際。
若さに似合わぬ確かな判断力。
当時の私は少なからず感心したものだ。
聞けば、彼女の亡き母親が看護師だったのだという。
──今の私は、むしろあの子に助けられたい側かもしれない。
そんな苦笑めいた思いにとらわれながら歩いていたせいか、前方の影に気付くのが遅れた。
不意に肩が支えられ、身体が引き寄せられる。
衝撃はほとんどなく、私はその胸に軽く受け止められる形になった。
視界が定まる前に、聞き慣れた声が耳に届いた。
「大丈夫でございますか、彩お嬢様。
お戻りが遅いので、気がかりでございました。
……お顔が赤いですよ。
どこかご気分でもお悪いのですか?」
その声音は、いつもと変わらず落ち着いていて、私のふらつく足元とは対照的だった。
「や……ぶき……?」
呼んだつもりの声は、思った以上に弱かった。
けれど矢吹は、ただ静かに私を支えたまま、ほんの僅か眉を寄せた。
その表情すら、私には申し訳なく思えるほどに真摯だった。
矢吹に支えられ、ようやく足元の揺れが収まってきた頃だった。
彼の手は必要以上に強くはなく、しかし放せば崩れると理解しているような確かさがあった。
私は軽く息を整え、彼の腕から身を離した。
「ねえ、矢吹?」
呼びかけた瞬間、彼は私の前でまっすぐ姿勢を正した。
この律儀さは、時に可笑しいほどだ。
「貴方……どうして分かったの?
私が大浴場のほうにいるって。
私、入浴するなんて貴方に言っていないわよ」
「ついででございます、お嬢様」
「ついで?」
「はい。麗眞さまのため、ホテルの顧客情報をハッキングいたしました」
……は?
歩き出そうとした足が、そこで止まった。
落ち着こうと深く息を吸ったが……
この内容では、さすがに無理がある。
矢吹は変わらぬ調子で続ける。
「その際、お部屋に彩お嬢様がいらっしゃらないことは把握しておりました。
宿泊客がホテル内のどこにいるのか……
場合によっては容易に分かるものでございます」
「矢吹……言ってることが怖いわよ……」
「そ、それは失礼いたしました。
怖がらせてしまいましたか。
昔、私はアメリカ国防総省で働いておりましたので……」
「ちょっと待ちなさい」
胸の奥で、何かが一瞬だけ固まった。
「矢吹。
貴方ってば、……アメリカ国防総省?
ペンタゴンで働いてたの?」
「さようでございます。
各国のサイトをハッキングし、サーバーに侵入する……
国益に不利な情報がないか確認するのが仕事でございました」
本日最大どころか、今年最大の衝撃だ。
私は静かに息を吐き、いつもの調子に戻した。
「そりゃ詳しいはずだわ……
パソコンもセキュリティも。
でも、そっちに詳しいなら経済も勉強しなさいよ。
株価が分かると得よ?
その国が次にどんな産業に力を入れるか……読み取れたりするの」
「勉強になります。
前向きに検討いたします」
そう答えたあと、矢吹の視線がふと私の背に降りた。
その眼差しが一瞬だけ細められたように見え、私は首を傾げた。
「ところで、お嬢様。
今お召しのお洋服ですが……
背中のファスナーが……開いておりますよ?」
「えっ――!」
近くのドレッサーに映る後ろ姿を確認すると、確かに大きく開いている。
風が通るはずだ。
湯上がりの身体には気持ちよかったが、これはさすがに無用心だった。
目の前の相手が矢吹で良かった。
これが麗眞だったら、また何か余計な一言を言われるに違いない。
「矢吹!
貴方……私の執事でしょ?
なんとかしなさいよ、これ!」
もう背を向けるほかない。
彼の手際が良いことは知っている。
「かしこまりました。
お嬢様、仰せのままに」
落ち着いた声が、背中越しに静かに響いた。
ドアが閉まった瞬間、
さっきまで外気に晒されていた背中が、ふわりと温度を取り戻した。
けれど、胸の奥はまだ落ち着かない。
(……さっきの、ファスナーのせいよね)
背中に触れた矢吹の指先の感触が、微妙な余韻になって残っていた。
変な意味じゃない。
ただ、執事として丁寧に動いただけ。
分かっているのに……
私は軽く咳払いして、矢吹へ振り返った。
「……もうお風呂入ったし、寝るわ。
貴方も早く寝なさい」
そう言う声は、どこか上ずって聞こえた。
矢吹はすぐさま頭を下げる。
「いけません、彩お嬢様。
髪がまだ濡れておりますゆえ……風邪をひきます」
一拍置いて、私は腕を組む。
言うと思ったわ。
「そこまで言うなら……矢吹?」
ゆっくりと顎を上げる。
「貴方が乾かしてくれるのよね?
私の執事でしょ?」
「お嬢様のためなら……なんなりと」
その瞬間、
矢吹の横顔がわずかに赤く染まったのが見えた。
胸の奥が、ごく小さく波打った。
照れか、はたまたドライヤーの熱のせいか——ほんの少し、彼の素顔を垣間見た気がした。
「お嬢様、どうぞ。
こちらへお座りくださいませ」
椅子に腰を下ろすと、矢吹は静かに髪を整える。
手の動きは完璧。
しかしそこかしこに男性の温かみが滲む。
髪を梳くときに首筋に触れられると、思わず小さく息を漏らした。
「ひゃっ……」
心の中で自分を戒めながらも、身体は素直に反応する。
「彩お嬢様……いけません。
私の鉄の理性に感謝してくださいませ」
耳元での囁きに、胸の奥が緩む。
熱を帯びたその声が、理性を揺さぶる。
髪を乾かし終え、服の上から軽く髪を払われる。
その手の感触に、一瞬心臓が跳ねた。
「ちょっ……矢吹……」
――下着を着けていないことまで察知されてしまったのかと思うと、思わず身体を硬くする。
「お嬢様、誤解でございます。
服の生地を整えるための所作でございます」
微かに胸の奥が残念なような、安堵するような、複雑な気持ちになる。
矢吹になら……少しくらい触れられても許せるかもしれない——
そんな心のさざめきに気づき、慌てて心を引き締める。
ベッドに倒れ込み、天井をぼんやりと見上げる。
宝月の屋敷と同じ静けさなのに、何だか落ち着かない。
こうも静かだと、私の心臓の音が聞こえてきそうだ。
「な、何よ。
眠くないからって、貴方に何かしてもらおうなんて思ってないわよ?」
声を少し落とす。
心臓の高鳴りを隠すために、わざと軽やかに振る舞う。
「そうでございますか?
その割には……顔が赤いですよ、お嬢様」
息が止まりそうになった。
矢吹の瞳は涼やかだが、言葉のひとつひとつが、胸の奥を静かに侵してくる。
「せっかくのバカンスでございます。
宝月の屋敷とは違う、素の私を……
少しずつですが、お見せする所存です」
「……矢吹……」
表情は涼しいまま、言葉だけで心を揺さぶるこの男に、私は抗えない。
「彩お嬢様。
私は、お嬢様が望むことなら……どんなことでも」
顔が近い。
ほんの少し動けば触れられる距離。
このまま、キスしたら……どうなるのかしら。
そんな考えが浮かぶと、自然と呼吸が止まりかけた。
「じゃあ……私が眠るまで、隣にいなさいって言ったら……できるの?」
「お嬢様のお望みでしたら、何なりと」
「でも……さっきみたいに変に胸元触るならクビにするわよ。
ここは屋敷じゃないから、一回くらいならノーカンにするけれど」
「彩お嬢様。お隣、よろしいですか?
“お嬢様の隣に”ということでしたので」
は……?
布団に一緒ってこと……?
無理。
矢吹と同じ布団で寝るなんて——
心のどこかで覚悟している自分に、軽く息をのむ。
「ふふ、冗談ですよ。
本気にされるとは……可愛らしいお方だ」
「矢吹……!」
叱ろうとする気力も、もう残っていない。
「彩お嬢様……」
声がかかる。
耳元に届くその低音は、眠りに向かう心をさらに柔らかく包み込む。
そのまま、私は静かに、深い眠りの世界へと落ちていった。
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