もう一つのテーマパーク

 ──コン、コン、コン。


 目覚めの淵で、規則正しいノックの音が静かに響く。

 

 矢吹のノックだけはすぐに分かる。

 

 いつからだろう。


 この音に起こされるのが当たり前になってしまったのは。


 時計を見ると、針は7時30分を指していた。

 

 胸の奥がひやりとする。


 寝過ごすなんて、私らしくもない。


「お嬢様、お目覚めですか?

 

 麗眞さまは、もう朝食を済まされたそうです。

 

 お嬢様の朝食が済み次第、もう一方のテーマパークに向かうとのことですよ」


「もう一方の……?」


「はい。


 確か、そのテーマパークでしか販売されていないクマのキャラクターグッズが豊富とのこと。

 昨夜の彩お嬢様は、たいへん楽しみにされていらっしゃいました。

 華恵さまや彼女のご令室様にもお土産で買うんだと、息巻いておられたかと」


 その言葉で、記憶が一気に戻った。


「そうよ!


 早く行かなきゃじゃない!

 


 あれ可愛いから、すぐ売り切れちゃうの!」


 寝不足のはずなのに、身体が軽い。

 スキップでもしそうな勢いでレストランへ向かった。


 靴擦れの痛みなんて、とっくに忘れていた。


 レストランへ入るなり、矢吹へ向き直る。


「矢吹。


 片っ端から、私の好きそうなメニューを、お皿に盛ってきてちょうだい」


 主の好みを把握しているのは執事として当然。

 

 席に一緒に着いてくれても、彼が食事を取ることはほとんどない。

 

 その分、これくらいはしてもらわないとね。


 そして戻ってきた皿には、私の大好物が美しく並んでいた。


「さすが私の執事ね」


 彼が静かに一礼する姿を横目に、私は食事を済ませた。麗眞と相沢さんが待つエントランスへ向かう。


 その刹那、不躾な声が飛んた。


「お嬢様。


 お着替えはよろしいのですか?」


 ……忘れていた。

 

 仕方なく部屋に戻って支度を整える。


 着替え、髪をセットし、メイクを終え、今度こそエントランスへ。


「お待たせしたわね。


 ごめんなさい。

 

 昨夜疲れてたのか、目覚ましかけずに寝ちゃったのよ」


「珍しい。


 姉さんがエロくない普通の格好してる。

 

 明日雪でも降るのかな」


 来て早々、これ。

 

 麗眞は相変わらず一言多い。


「普通の格好って何よ!

 

 昨日だって、普通だったわよ!」


 弟という生き物は、どうしてこうも遠慮がないのかしら。


「そう?

 

 昨日だってホテル戻れば、いつも宝月の屋敷にいるときみたいな格好してたじゃん。

 

 平気でノースリーブのワンピース一枚とか、袖が短いブラウスとミニスカとかさ。

 


 アラサーでミニスカートって、ちょっと無理があるんじゃない?


 椎菜だって年相応のOLみたいな格好してたぜ?

 

 姉さんがいつも屋敷にいるときみたいな露出多い格好ってさ。

 

 本人は無意識だとしても、男を疼かせるには充分なわけ。

 

 男って単純だから。


 矢吹さんの身にもなれっつーの」


 ──どういう意味かしら。

 

 それに、姉である身内の私と、麗眞の“愛しい人”を比べるのはどうかと思うわ。


「Tシャツにチェックシャツにジーンズって。

 ちょっと新鮮ね。


 そこまでラフな麗眞を見るの、高校生の頃以来な気がするわ」


「矢吹さんも私も、少しでも一般のものに紛れるため、このような格好を麗眞坊っちゃまに推奨したのでございます。

 

 私も、このような麗眞坊っちゃまを拝見するのは久しぶりです」


 なるほど。

 

 いつものようにテーマパークを一ヶ月貸し切るわけにもいかない。

 

 パパが株主だから頼めば可能だけれど。


 今日はそういう趣向ではないのだろう。


「ふーん……そうなのね……」


「そうでございますよ、彩お嬢様。

 

 まあ、白地の花柄ワンピースにベージュのカーディガンという“普通の格好”も、彩お嬢様の美しさの前では無意味かと存じます」


「何よ矢吹!

 

 貴方……熱でもあるわけ?

 

 素直に褒める矢吹、珍しすぎて気味が悪いわ」


「お嬢様、私はいつも彩お嬢様を誉めているはずですが……」


「ふふ、冗談よ。


 本気にしないで。

 

 ホント、冗談の通じない執事」


「さあ、参りましょうか」


 相沢さんの一声で、私たちは歩き出した。


「眠い……」


 睡眠不足がじわじわ押し寄せる。


「眠いのでしたら、眠気など一瞬で吹っ飛ぶ、垂直落下がウリのアトラクションがあるそうでございます。

 

 それに一番最初に乗りますか?


 お嬢様」


 ……垂直?


 そんなの──嫌に決まってる。


「冗談ですよ、彩お嬢様。

 

 怖がらせてしまったのなら……申し訳ございません」


「べっ……別に大丈夫よ。


 怖がってなんかないから」


 たぶん、全部バレている。


「彩お嬢様。声が震えていらっしゃいます。

 

 本当に大丈夫でございますか?」


 耳元に落ちる低い声。

 

 白いシェルのピアス越しに、微かな振動が身体に伝わる。


「大丈夫よ。

 

 大丈夫だから……いちいち耳元で言わないでくれるかしら?

 

 くすぐったくてかなわないわ」


「大変失礼いたしました。


 平にお許しを」


 律儀に頭を下げるその所作は、見慣れているはずなのに、胸の内側へ静かに触れてくる。



「暑い暑い……いろんな意味で。

 

 相沢と二人で来てるオレの身にもなれって。


 いつかは椎菜と二人で来たいんだけど。

 

 しかもこんな感じで貸切で」


「貸切にするのは椎菜ちゃんとウザいくらいイチャイチャしたいからでしょうけどね。


 昔行ったときは貸切にできなかったのね」


 この話を振ったことを、後悔することになる。



 でも、あの時も楽しかったよ。


 椎菜がさ、すごく喜んでくれてさ。


 彼女、やっぱり可愛いんだよな。


 クリスマスの夜だから、イルミネーションが綺麗で。


 手を繋いで歩いてると、ちょっとだけ特別な気分になったんだよな」


 また始まった、と私は思った。

 

 麗眞が少し遠い目をして、“椎菜ちゃんとの思い出話”を始める時の顔だ。


 あの時の椎菜、最高だったんだよ。


 パレード始まると、ホテル出る足取りからすでにはしゃいでて。


 椎菜が俺の恋人で良かったって思った瞬間だったんだよ。


 もう一度、あんなデートができたらいいな、って思うし」


 まったく、いつまで続くのよ、この話。

 とっとと、椎菜ちゃんとより戻すために動いたらどうなのよ。


「麗眞坊ちゃま」


 相沢さんの声が、空気を揺らした。


「蒸気船が見えてまいりました。


 あれに乗れば、例のアトラクションはもうすぐでございます」


 彼が小声で、私に言った。


「申し訳ございません。

 主の坊ちゃまに変わって、私がお詫びいたします」


「いいのよ。


 相沢さんが謝らなくても。


 彼に悪気はないことくらい、分かるわ。


 一応、姉ですもの」


 蒸気船に乗り込む。



 エントランスから一番遠いエリアに向かう蒸気船なのだという。



 私……寝そうだわ……



「お嬢様。


 よく……睡魔に耐えられましたね」



「当たり前よ。


 10分も乗ってなかったじゃないの」


 あの……まさか……あれ?


 嫌でも目につく、高くそびえ立つエジプトにでもありそうな神殿。



「い……行きましょ、矢吹」



 もういい歳なのよ。


 これしきで怖いなんて、言うもんですか。



 序の口……でも、なかったわ。


 急降下が始まったかと思えば、一瞬でスピードが加速し、あっという間に駆け抜けていく。


 炎の演出が加わり、さらに恐怖感を増す。


 体が浮く感覚に、呼吸が浅くなる。


 心臓の鼓動が、耳の奥で強く響く。


「お嬢様、ジェットコースターというものは……そのようなものです」


「知ってるわ……それくらい」


 言い返してみたものの、声の揺れは隠せない。


 矢吹は、嫌味を感じさせることなく、爽やかな笑顔を浮かべながら……わざと顔を近づけてきた。

 その距離の詰め方が、どうしようもなく自然で、どうしようもなくずるい。


「そんなことをおっしゃるなら……


 怖くないのでございますね? 


 垂直落下」


「……」


 鼓動が跳ねる。


 私は無言で、背の高い相沢さんの後ろに隠れるように身を寄せた。


 大人の女のくせに、と自分を咎めながらも、体が勝手に動いていた。


「冗談です。


 では、急降下が苦手なのでしたら……


 一回転でしょうか」


 一回転……?


 回るのよね、ぐるっと。


 ジェットコースターが一回転するなんて、聞いたことがなかった。


 想像しただけで、喉の奥がきゅっと狭くなる。


「おや、一回転するループコースターもご存じなかったのでございますか?


 所詮、急降下と同じように一瞬の出来事ですから、どうぞご安心を」


「はあ……」


 この男、全く……。

 さりげなく私をからかっているのだろうけれど。


 その声音が柔らかいせいで、本気で怒る気にもなれない自分が腹立たしい。


「あ、そうだ、彩お嬢様。

 伝え忘れておりました。


 恐怖を感じられた場合は……相沢ではなく、私にお申し付けください。


 彩お嬢様の執事は、相沢ではなく私、矢吹でございますので」


 何……?


 その、意味深な言葉。


 あえて静かに告げるところが、また心を掻き回す。


 その言葉の意味が分かるらしい私の愚弟は、一生懸命に笑いをこらえている。


 余裕のある横目が、癪に障る。


 後で、必ず聞き出してやる。


 自分でも気づかなかった。


 いや、気づかないふりをしていた。


 その時、心身ともに、まるで熱を帯びたような感覚があったのに。


 ああ、あなたは……知らぬ間に私の心を奪っていく。


 罪な人。


 その罪に、私はもう抗えそうにない。


 いよいよだ。


 脚が震える。

 その震えが、

 どこから来ているのか、自分でも測りかねていた。

 恐れなのか、期待なのか。


 それとも――隣にいる彼の気配に、体が勝手に反応しているだけなのか。


「お嬢様。


 大丈夫でございますか?」


「大丈夫よ……!」


 声に力を込めたはずなのに、息の揺らぎは隠し切れない。


「大丈夫には見えませんが」


 そう言って笑ってくる。


 その微笑に触れた瞬間、強がりなんて簡単に見透かされる。


 矢吹の前では、どんな仮面も長くは持たない。


 貴方の前では、強がってもムダみたい。


「矢吹。

 一回転の前……


 合図しなさいよ?」


「分かっております。


 私が合図をしたら、首を背もたれに付けていただきますよう、お願いいたします。


 首を痛めますので……」


 いつもの落ち着いた声音。


「分かったわよ……」


 私たちの番だ。


 覚悟を決めた。


 体より先に、心が静かに固まっていく。


「さあ、参りましょうか、お嬢様」


「ええ……」


 一回転は、想像より遥かにあっけなかった。


 その短さに、むしろ現実感が追いつかない。


「ね……ねえ……


 矢吹?


 一回転……したのよね?」


「ええ。

 確かに致しましたよ」


 そうだったかしら?


 緊張の波が引いたあと、記憶だけが薄い膜を張って残る。


「だから言ったろ?



 姉さん。


 一回転なんて一瞬だって。


 あんな半泣きになってたくせに、終わった途端これだもんな。


 姉さんのリアクションのほうが面白いから、いいんだけど」


 麗眞のからかいは、いつもの調子。


 でも今は、言い返す余裕が少しだけある。


 緊張の残り香が、私をゆっくりと解放していく。


「ちょっと麗眞!

 それ言わないでよ!」


「さすがは宝月家の次期当主。


 度胸がおありで。


 矢吹のその言葉に、一番ホッとした。


 評価でも賛辞でもない――“見ていてくれた”という確かな存在感。


 それが胸の奥に、静かな熱を落としていく。


「おや、辿り着いてしまいましたね……」


 低く抑えた声。


 その響きだけで、何が待っているのか悟った。


 例の垂直落下のところだと、私の第六感が告げていた。


 視界の先で、レールがわずかに軋む。


「じ……上等じゃない!


 行ってやるわよ」


 喉の奥の震えをごまかしながら声を張る。


 矢吹から……さきほどと同じ言葉を貰いたい一心でだった。

 

 褒められたくて仕方がない――


 そんな子供じみた欲ではなく、彼に“見届けてほしい”という、もっと濃く静かな感情。


 人間、褒められれば嬉しいものね。


 震える手を握りながらアトラクションに向かった。

 その震えが、さっきより少しだけ温かかった。

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