高校時代

 椎菜――


 その名を呟くと、胸の奥がほんのり温かくなる。


 俺と椎菜は、高校時代に恋仲だった。


 彼女に対しての溺愛ぶりは、今でも自負できる。


 放課後、屋敷の空き部屋に彼女を連れ込み、抱きしめ、互いの体温を確かめ合うのが日常だった。


 甘く、時に激しく絡み合う時間――


 それが俺たちの秘密の喜びだった。


 周囲の友人や高校の教職員からも、と大げさに言われるほどだった。


「早く結婚しろ」


「ラブラブ夫婦だな」


 高校の卒業式の日、俺は椎菜を日本に残し、カナダへと旅立った。


 それでも、暇があればTV電話で連絡を取り合った。


 会えない間の出来事は鍵付きの日記帳でお互いに交換していた。


 椎菜は口に出して気持ちを伝えることを遠慮する。


 だからせめて文字にだけは残してほしい――それが俺の望みだった。


 ある日、椎菜が突然カナダに現れた。

 

彼女が来るなんて、事前に知らせがなかった。


俺は眉をひそめ、軽く口をつぐんだまま、互いに言葉を探していた。


 その後、椎菜は少し距離を置きたいと告げた。

 声は柔らかかったが、微かに震えていたのを覚えている。


「嫌いになったわけじゃない。

 

今でも本当に大好き。

 

だけど、麗眞と少し離れて、いずれ宝月家を背負う立場になったとき、自分が相応しい振る舞いができるのか。

 

自分にその覚悟があるのかどうか、きちんと向き合いたいの」


 俺はただ黙って頷いた。

 

 ミントグリーンのニット、白いレーススカート、茶色のレースアップシューズ、肩にかけたショルダーバッグ――

 

 その姿が、言葉と同じくらい鮮明に目に焼き付いていた。


「分かった。

 

お前がそう考えたなら、椎菜。

 

お前の決断を尊重する。

 

麗眞としてではなく、矢榛椎菜という一人の人間としての将来を考えての結論なんだな。

 受け止めるから」


 その時、椎菜は少し目を伏せ、唇を小さく噛んだ。


 俺たちは言葉少なに、しかし自然と体を寄せた。


 抱きしめたとき、彼女の背中が柔らかく手のひらに沈む。


 唇が触れ合った瞬間、甘い香りと微かな震えが伝わってきた。


 耳元で吐息を聞き、互いの鼓動を感じながら、時間だけが静かに流れた。


 どれくらい抱き合っていたかは覚えていない。


 ただ、あの瞬間のすべて――温度も匂いも、触れた感覚も――目を閉じれば今でも鮮明に蘇る。


 その後、仕事に追われ、俺たちの連絡は自然と途絶えていった。



 だが今日、偶然にも椎菜がここにいると分かった以上、話さずにはいられない。


 城竜二が本当に獣医師コンテストで優勝を頼んだのか、直接確かめるつもりだ。


「矢吹さん。


 ここには麗眞坊ちゃまの前に仕えていた執事からの情報も含まれています。


 麗眞坊ちゃまと椎菜様は、幼少期からお互いを強く意識していたようです。


 高校に上がってから恋仲となり、夜な夜な屋敷で甘い時間を過ごしていました。


 坊ちゃまは当時から性欲が有り余っておられ、要求も多かったそうです。


 翌朝、椎菜様が肩や腰の痛みを訴えた際には、塗り薬で対応していたこともあるとか」


「相沢!


 余計なことを言うんじゃない……


 まったく」


「ふむ。

 なぜ椎菜さまと麗眞さまが幼少期から仲良かったのか――


 そこだけが引っかかります」


 矢吹さん、そこに引っかかるか。


 長くなるが、話してやろう。



 弁護士の華恵さんとその夫・優作さん。


 矢吹さんも会ったろ?


 彼らが椎菜の両親と同級生で、今も親しい。


 椎菜の両親が海外出張のときは、幼い椎菜を宝月の屋敷に預けに来た。


 その縁で、幼い椎菜は屋敷に遊びに来るようになった。


 本格的に異性として意識したのはその頃だ。


 ある風の強い日、遊んでいた時に椎菜の麦わら帽子が飛ばされ、俺が木に登って取った。


 その時の彼女の笑顔に、俺は惚れたのだ。


 高校で告白し、無事に恋人として結ばれた――それが俺たちの始まりだ。


 今思えば、よく高校まで関係を進めるのを待てたものだ。



「おや、そうでしたか」


 矢吹さんの声が、回想を断ち切った。


「私も椎菜さまにお目にかかりたくなりました。


 麗眞さまが一目惚れされるほどですから、さぞ麗しい女性なのでしょう。


 麗眞さまは、未だに椎菜さまを忘れられないご様子です。


 何かご尽力できることがあればと思います。


 微笑ましいお話、ありがとうございます。


 彩お嬢様からはこのような浮いた話は一切聞かないので、癒やされました。


 さて、麗眞さま。


 貴方でしたら、椎菜さまに城竜二さまの計画を問いただせますね?」


「わかってる。


 どこかで椎菜に会ったら声を掛けるつもりだ。


 矢吹さん、相沢も気をつけてくれ」


「了解いたしました。


 麗眞さま、ひいては彩お嬢様のためでございます」


「頼む。


 姉さんには内緒だ。


 親父やおふくろにもだぞ。


 適当にごまかしておけ」


 城竜二が何を企んでいるのか――


 問題はそこだ。

 もしパソコンを使った策略なら、矢吹さんの得意分野だろう。


 彼はかつてペンタゴンでホワイトハッカーとして活動していたらしい。


「あ、矢吹さん!

 宝月家のセキュリティシステム――


 普通のハッカーでは100年かかると聞きます。


 万が一、宝月家のセキュリティーを破れる者がいた場合、どれくらいで突破可能ですか?」


「最短で3ヶ月、最長で半年でしょう」


 アメリカのペンタゴンよりも強固か……


 さすがだ。


 これなら、突破にかかる時間で対策は十分打てるはずだ。


「ありがとう、矢吹さん」



「とにかく、俺は椎菜を探す。


 ったく、椎菜のヤツ、自分が可愛いって自覚が微塵もないからな。


 どこかで変な野郎に襲われてないか、それだけが心配だ」


 そう言うと、俺は部屋を出てホテルの廊下を早足で進んだ。


「大丈夫でしょうか……


 麗眞坊っちゃま、お一人で……」


「まあ……麗眞さまも刑事ですからね。


 護身術くらいは心得ておりますし、大丈夫でしょう。


 それに、我々もここで麗眞さまの帰りを雑談しながら待っているわけにはいきません。


 給料分くらいは、いや給料分以上に働かなければなりません」


 数十分後、俺の携帯に椎菜の部屋番号がメールで送られてきた。


 矢吹さんがこのホテルの顧客情報をハッキングしたらしい。


 相当な手練れだ。


 椎菜のわずかな情報を、ほんのわずかな時間で正確に掴むなんて容易じゃない。


 さすがホワイトハッカーをしていただけのことはある。


 その番号を頼りに、俺は椎菜の部屋へ向かった。


 廊下の突き当たりで、ひとりの女性が立ち往生していた。


 デニムシャツを花柄スカートにきっちりインした、俺より20cmほど背の低い女性。


 スカートのピンク色に青い花柄があしらわれていて、色味は違えどデニムの青とリンクしていた。


 やはり椎菜だ。


 母親がモデルという血筋を受け継いでいる。


 デニムシャツの下で膨らみを主張する胸に、思わず目を奪われる。


 足元は茶色のレースアップシューズ。


 少しヒールはあるが低めで、あの日履いていたものと同じだ。


 髪は少し染められ、胸のあたりで内側にカール。


 両耳には、ハート型のピアスが揺れていた。


 ――香水だろうか。


 少し甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。


 高校生の頃、俺が誕生日に贈ったものに間違いない。


「椎菜?」



 声を掛けると、女性の大きな瞳が見開かれた。


 俺は本能的に彼女に近づき、華奢な身体をそっと腕に収めた。


「久しぶり、椎菜。


 こんなところで会うなんて偶然だね。


 しばらく見ないうちに、少し痩せたんじゃないか?」


「れ…麗眞……うん、そうかも。


 痩せた、かな。


 それで、ちょっと困っていて……


 その、部屋のカードキーーを落としちゃったみたいなの」


 こんなところで俺に会って少し動揺しているのか、嬉しいのか。


 声色からは読み取れない。


 だが、そっと俺の背中に手を回してくれている。


 拒否はしていない。


 ヨリを戻せる可能性はゼロじゃない。


 そのためには、まず彼女の困りごとを解決する必要がある。


 なるほど……部屋に入れないのか。


 胸の大きさがデニム越しでも分かる。


 こんな健全な男を刺激する姿のまま、ここに長く居させるわけにはいかない。


 俺は名残惜しくも、椎菜の細い身体をそっと腕から解放した。


 ルームキーを差し込むドアを一目、確認する。


 自分のルームキーの形状と一緒にデータをメールで送った。


 数十分で処理できるはずだ。


 偽造が必要なら、相沢の得意分野だろう。


 フロントに届いている可能性も含めて視野に入れる。


「よし。

 もう少しで部屋に入れる。


 待っててくれ」


 軽く椎菜の明るい茶髪を撫でると、彼女の方からそっと抱き締めてきた。


 華奢な背中に腕を回すと、少しでも力を込めたら折れそうな感触だ。


 か細い声で、言葉を選びながら話す椎菜。


 俺はゆっくり耳を傾ける。


「ごめんね……麗眞。


 獣医になる勉強で忙しくて、連絡取れなくなるのが寂しくて……。


 遠距離恋愛なんて無理だと思って、距離を置く決断をしたの。


 あの日から交換してた日記、まだ捨ててない?


 泣きながら経緯を書いたから、1枚1枚めくって読んでね。


 1ページだけ、仕掛けがしてある」


 彼女は少し間を置いて続ける。


「ほんとは、ずっと会いたかった。


 今でも貴方が大好き。


 でね、美崎さん――


 さっき会った女性の名前だけど――


 その人に言われたの。


 彩さんの病院を破綻させる計画に協力しろ、って。


 私の飼ってるガンのワンちゃんの治療や、心臓の悪いおじいちゃんの費用も助けてくれるって言われたの」


 一度彼女はそこで言葉を切って、潤んだ目で俺を見上げた。


 おじいちゃんなんて、ちょっと痴呆症入ってきてるの。



これ以上酷くならないうちに、花嫁姿を見せてあげたいし。


 お父さんは、今はデザイナーとして独立してて仕事忙しいし。


 お母さんだって、主演女優賞にノミネートされるくらい業界からも認められてるし。


 仕事に誇りを持ってる両親の姿を見るのが好きなの。


 家族を守りたくて、協力するしかなかった。


 間違ってるって分かってる。


 お願い!


 助けて、麗眞」


 彼女の声が震える。


 潤んだ目からひとすじ、涙が頬をつたった。


「どうしたらいいのか、私じゃわからない……。


 麗眞、気をつけて。


 パソコン使って株価操作するつもりよ。


 北村動物病院に関わる全企業の株を。


 お姉さんに相当な恨みがあるみたい……」


 やはり姉さんに、間接的な危害を加えるつもりだな。


 そうはさせるか。



「椎菜……サンキュ。


 話してくれて」


 腕の中からそっと彼女を解放し、軽く頭を撫でる。


「久しぶりに顔を見て、声を聞けて……本当に嬉しかった」


 高校時代の写真を見て、柄にもなく涙を流したこともあった。


 あの日記帳――


 日本に帰ってから読んでいなかった。


 鍵もそのまま。


 いずれ、ちゃんと読むつもりだ。


「俺もさ、椎菜の幸せを考えて結論出してなんて、カッコいいこと言ったくせに。


 今でもお前が大好きすぎるんだ、椎菜」


 成人を迎え、未成年だった頃より膨らんだ体を数年ぶりに感じたせいか、下半身が無言で主張を始める。


 ――この状態はさすがにマズい。


「ううん、私の方こそ嬉しかった。


 麗眞に会えたもん。


 正直、一生会えないと思ってた。


 大好きだからこそ迷惑はかけたくない。


 大好きな麗眞にも、麗眞のお姉さんにも危害が及ぶようなことには……ならなそうでよかった」


 微笑む椎菜の手を強く掴む。


 下を向く彼女の唇に自分の唇を重ねようとした――その瞬間だった。


「麗眞坊っちゃま。


 こちらでございます。


 捜し物はフロントに届けられておりました。


 どうぞご安心を」


 相沢がルームキーを手に小走りでやってきた。


「やけに早かったな……相沢。


 もう少しかかるかと思ったぜ。


 俺の執事なら、空気は読んでほしかったな」


 椎菜にキスできる直前だっただけに、苛立ちは隠せない。


「も……申し訳ございません。


 ご無礼を」


「おや、椎菜さま。


 お顔を拝見するのはお久しぶりです。


 お元気そうで何よりでございます。


 城竜二さまは……椎菜さまを何が何でも優勝させるために、審査員にワイロやカネを握らせるのでは?」


「やりそうだな……


 狡い手を使うからな、あの財閥」


 相沢の顔は耳まで真っ赤だった。


 寸前だったとはいえ、もう少し遅ければ、主人のラブシーンを目撃するところだったのだ。


「金の亡者の城竜二財閥だ。


 やりかねない。


 ペットの飼い主から金を巻き上げるわりに、ずさんな手術をして病状が悪化したらクレーマー扱いする。


 ヒドイ獣医だ、城竜二美崎は。


 それを隠すためにも確実に手を使ってくる」


「お祖母ちゃんが審査員長だから大丈夫。


 動物虐待事件の解説もテレビでやっている人よ。


 人を見る目もあるから、問題ないよ」


 相沢は小声で呟いた。


「だといいのですが……」


 聞こえてるぞ。


「何か言ったか、相沢?」


 優秀な執事を横目で睨む。


 椎菜を悪く言うのは絶対に許せない。


「いえ、特に何も」


「私のことは心配しないで。


 おやすみ、麗眞」


 潤んだ瞳で見つめる椎菜。


 可愛すぎる。


 理性はギリギリ保たれているが、いつまで保つか分からない。


 華奢な腕を引き、赤く縁取られた唇に舌をねじ込みたくなる衝動が抑えきれない――


 しかし、このホテルの廊下でそれを行うわけにはいかない。


 あと1秒あれば、キスは成立していたかもしれない。


 椎菜も拒まなかっただろう。


 頭の中で想像はすでに膨らんでいる。


 未だ収まらぬズボンの膨らみが、その証拠だ。


 ヨリを戻していないうちにするわけにはいかない。


 宝月家の屋敷で、きちんとしたタイミングで――


 そう決めている。


 小声で相沢に時間を尋ねる。


 22時だという。


 十分遅い時間だ。


「椎菜、おやすみ。


 もう学生じゃないんだし、夜更ししないで早く寝ろよ」


 額に軽くキスをしてやると、顔を真っ赤にしたまま椎菜は自室に入り、ドアを閉めた。


 俺も自分の部屋に戻った。


 胸の奥に残る熱と官能を、なんとか押さえつけるように、深く息を吐いた。

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