講義

「お嬢様。


 ご到着いたしました」


 運転席から降りてきた矢吹が、ドア越しに静かに告げる。


 矢吹の運転は、相変わらず所作がいちいち綺麗だ。


 滑るように切り返す手首。


 信号のない横断歩道で歩行者を見つけるや否や、すっと速度を落とすあの気配り。


 ブレーキひとつとっても丁寧で、無駄がなくて……


 なんか、安心するのよね。


 ……安心?


 何それ。私らしくない。


 でも目が離せないのよ。


 あの静かな横顔から。


(ほんと、こういうところ……ずるいわよ、矢吹)


 もし、道行く誰かが“あ、この人素敵”なんて思ったら?


 そんなの、耐えられる気がしない。


 …………。


 バカみたい。

 何を気にしてるのよ、私ったら。


 気を逸らすように外を見ると――


「えっ、早……」


 まだ30分も経っていないのに、目的地である大学の門が目の前だった。


「お疲れの彩お嬢様に負担をかけぬよう、最短ルートで参りました」


(……ほんと、どこまで気が利くのよ)



 矢吹に手を添えられて車から降りる。


 病み上がりでバランスを崩しそうになったから、自然に彼の手を握った。


 温かい。


 びっくりするほど。


 私の隣で丁寧に頭を下げる矢吹と共に、学長らしき人物へ挨拶した。


「本日はよろしくお願いいたします」


「こちらこそ、わざわざお越しくださってありがとうございます」


 上品なやり取りのあと、学長は少し険しい顔になる。


「……講演と授業見学が終わったら、すぐにお帰りください。


 最近、女子生徒が施設内で襲われる事件が続いていましてね」


 ああ、だから校舎のドアが一箇所しか開いてなかったのね。


「不審者の特徴は?」


 私が尋ねると、学長は小声で答えた。


「黒のニット帽に、グリーンのロングコート……サングラスをしている男です」


 90分の講演はあっという間だった。


 動物病院の経営成功のコツ、市場分析の基本。


 競合企業の動きを読む“宝月流の嗅覚”まで余すことなく話した。


 終わったあと、学長の提案で授業見学へ。


「さすがでございます、彩お嬢様。


 私はまったく理解できませんでしたが……」


「貴方も私の執事でしょう?


 経済学くらい、勉強しておきなさいよ」


 少し呆れた顔をする矢吹。


 でも、そんな表情を見せるのは私の前だけだ。


 マネジメントの授業では、学生の経営計画を次々に切り捨てた。


「甘すぎるのよ、その計画。


 そんなの、宝月グループなら3秒で買収してるわよ?」


「お嬢様、少々……手厳しいのでは?」


「いいのよ。


 経営者は打たれて強くなるの」


 きょとんとした学生たちを置いて、教室をあとにした。


「矢吹、ちょっとお手洗い行ってくるわ」


「かしこまりました。


 どうぞお気をつけて」


 化粧直しをして、廊下に戻った――その瞬間。


 ガッ。


「……っ!?」


 腕を掴まれ、背中から床に叩きつけられた。


 黒のニット帽。


 グリーンのロングコート。


 サングラス。


(……学長が言ってた、不審者)


 ニヤリとした唇。


 獲物を見つけたとでも思ってるんでしょうね。


 矢吹の姿はどこにもない。


 なんでよ……肝心なときに。


「やだ……!


 離しなさいよ!!


 助けて……!!」


 足音。


 革靴の、硬い、よく知っている音。


 次の瞬間――


「私の彩お嬢様に触るな。


 ……汚らわしい」


 低く、震えるような声。


 矢吹だった。


 その瞳には、今まで見たことのない“冷たさ”が宿っていた。


 私を見つけたときの、あの怒りと焦りの混じった表情――


(……ああ。

 こんなふうに守ってくれるの、ズルいわよ……矢吹)



 聞き慣れた声音ではなかった。


 いつもの矢吹の声は、柔らかくて、耳に心地よくて、私の神経を静かに鎮めてくれる音。


 でも今の声は――


 それより一オクターブ低い。


 冷たく、鋭く、怒りを押し殺した刃のような音色だった。


(……こんな声、初めて聞いた)


 何が起こったのか理解するより先に、男の喉からひゅっと空気が漏れた。


 次の瞬間には泡を吹いて床に沈んでいた。


 ぽかんとしている私の前に、膝をつく影。


「大丈夫でございますか、彩お嬢様」


 それは――私の執事である矢吹だった。


 でも、さっきまでの“私の知っている矢吹”とは違う。


 静かに燃えるような怒りを纏いながら、それでも私の前では丁寧に頭を下げる。


「彩お嬢様。


 ……お手を」


 差し出された手に引かれ、私は立ち上がる。


 そして気づいたら、私はそのまま矢吹の胸板に身を寄せていた。


 信じられないのに、でも離れられなかった。


 胸に耳を当てると、一定のリズムを刻む心臓の音。


 その規則的な振動が、さっきまで暴れていた私の心をゆっくり落ち着かせていく。


「怖かった……


 来てくれないかと思った……」


 自分でも驚くほど弱い声が、勝手に漏れた。


 矢吹は私の背にそっと手を添え、静かに言った。


「私も……ご到着が遅れてしまい、申し訳ございません。


 お嬢さまを危険に晒した私は、執事失格でございますね」


「そんなこと……ないわ……」


 首を振る私を見て、矢吹はそっと抱き寄せる力を強めてくれた。


 そのとき――


「姉さん、目を離したのは俺のせいでもある。


 矢吹さん、俺に電話してたから」


 聞き覚えのある声に、顔を上げる。


「れ……麗眞れいま……」


 宝月 麗眞ほうづき れいま


 刑事をしている、三つ下の弟。


「ちょうどこの大学の正門を警備しててさ。


 矢吹さんの連絡に気づいて走ってきた。


 ……おかげで現行犯だよ。


 助かった」


 普段は生意気なくせに、こういう時は私を子どもみたいに心配するところが弟らしい。


「姉さん大丈夫なら良かったけど。


 じゃ、俺は署に戻るから」


 手を振って去っていく背中を見送って、小さく息をついた。


「……これで安心ですね、彩お嬢様」


 矢吹の声がすぐそばで聞こえて、私はその胸板にまた身を寄せてしまっていた。


 自分で抱きついていることに気づくまで、少し時間がかかった。


「えっと……なんか……怖くて……


 申し訳なかったわね」


「仕方のないことでございますよ。


 むしろ、その感情はとても正常でございます。


 彩お嬢様は、動物病院経営者であり鑑識医。


 こうした状況に直面することは滅多にございませんから」


 その言い方が優しくて、胸がまたきゅっと痛んだ。


「……ごめん。


 でも……嬉しかったわ。


 助けてくれて……ありがとう」


「どういたしまして。


 大切な彩お嬢さまにお怪我がなくて、私も安心いたしました。


 私を頼ってくださったこと……嬉しゅうございましたので、どうぞお気になさらず」


 その微笑みに、私の頬もゆるんでしまう。


「……早く屋敷に帰りましょう、矢吹。


 今日は講義で体力使ったから、いつもよりボリュームあるディナーがいいな」


「かしこまりました、彩お嬢様」


 行きと同じリムジンに乗り込む。


 その瞬間までずっと――

 私は矢吹の手を、離したくなかった。



 帰宅して、肌映えの良いピンクの花柄ワンピースに着替えた。


 平巻きにしていた髪をゆるくハーフアップにまとめる。


 夕食の前にはいつもこうして髪を結う。


 邪魔になるから——


 というより、母にそう躾けられた名残がまだ抜けない。


 食堂で夜ご飯をいただいた。


「さすが矢吹。


 私の願いは何でも叶えてくれちゃうのね」


 もちろん、私は今日、何一つメニューをリクエストしていない。


 なのに、席についた瞬間、湯気を立てたすき焼きが運ばれてきた。


「恐れ入ります」


 矢吹は、教科書のように美しい所作で一礼する。


 その丁寧さが、妙に心地いい。


「でも……やっぱり本業が一番気が楽ね。

 副業は……荷が重いわ」


 軽くため息をつく私に、矢吹は穏やかに笑んだ。


「講演中の彩お嬢様は、いつもより輝いていらして……とても魅力的でございました」


「なにそれ。


 当たり障りない感想ね。


 まあ、いいわ」


 そこへ、スリッパのかかとを踏みながら、ダルそうにと入ってくる影があった。


「ったく……。


 なんでそんな、姉さんは嫌うかな。


 刑事や検事の仕事。


 いいもんだぜ、人を助けられるんだから」


 麗眞だ。


「……!


 れ……麗眞……!


 何しに来たのよ」


「何しにって……メシ食いに来たの。


 食堂来て、用事はそれしかないだろ?」


「だからって……何で急にここに来るわけ?


 今までどこで食べてたかなんて知らないし、知りたくもないけれど。


 なんで急に来るのよ?」


「別に。


 母さんや父さんに言われたんだよ。


たまには家でメシ食えって。


 ……姉さんも俺に会えなくて寂しがってるって言ってたし」


「はあ?


 冗談じゃないわよ。


 勘違いも甚だしいわ。


 私、そんなこと一言もパパたちに言ってないわ」


 麗眞を、強い目で睨み返した。



「とにかく……


 落ち着けよ。


 座れって」


 妙に柔らかい声音で言われて、反射的に椅子に座ってしまった。



 ……癪だ。


「ごめんなさいね、矢吹。


 しょうもないケンカを見せてしまったわ」


「いいえ。


 お気になさらず」


 矢吹は表情ひとつ動かさない。


 私と麗眞の小競り合いにも微動だにしないその姿勢が、逆に安心させる。


 麗眞の執事、相沢あいざわさんが彼の夕食を運んでくる。


 私と麗眞は一番奥の席で向かい合った。


 距離はある。



 だが、仲が悪いわけでは……ない。


 私が食べ終えた頃、麗眞が唐突に言った。


「姉さんさ、まだ根に持ってるでしょ?


 藤原さんのこと。


 傍から見るとバレバレだよ。



 たぶん矢吹さんも気付いてる」


 矢吹に視線が一瞬走った気がした。


 止めてよ。


「根に持ってて何が悪いのよ!


 昔からバカだバカだと思ってたけど、やっぱりバカだったわね!」


 勢いのまま畳みかける。


「一言多いのよ、麗眞は!


 どんなにいい大学出ても、その“ふとした瞬間”の言い方に人間性って滲み出るものよ!


 だから愛しの椎菜しいなちゃんにも距離置かれるのよ!


 よくも人の傷をえぐるようなこと、平気で言えるわね!」


 自分でも止まらなくなっていた。


「皆勝手なことばっかり言って!

 

もう知らない! 」


「彩お嬢様——」


 矢吹が制止しようとした声に振り向く前に、私は椅子を引き、食堂を飛び出していた。


 心臓がうるさい。


 夕食の香りが、急に遠ざかった。

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