ハプニング

「お嬢様。ご夕食の準備が整っております。

 

 降りていらっしゃいますか?


 あるいは……お部屋までお運びいたしましょうか」


 ドア越しの矢吹の声は、いつもの落ち着いたトーン。


 わざわざ呼びに来てくれたのに、往復させるのはさすがに悪い。


 それに、寝てばかりでは筋力も落ちる。


 私はまだ若いのだ。


 多少の無理くらい――。


「降りるわ」


 布団を払って立ち上がろうとした、その瞬間。


「きゃっ……!」


 足が、思った以上に頼りなかった。


 視界が揺れる。


「昔から彩お嬢様は“自分のことは自分で”の方ですからね。

 

 ですが――無理は禁物でございます」


 そう言い終わる前に、私はふわりと持ち上げられていた。


 ……また、お姫様抱っこ。


 矢吹の腕は、相変わらずしっかりしていて温かい。


 自分でも理由が分からないけれど、胸のあたりがくすぐったくなる。


「ちょっ……矢吹!



 降ろしなさいよ!」


「暴れられると本当に落ちますよ。

 

 お風邪を召されているときくらい、我々を頼ってくださいませ」


 その“我々”の中に、当然のように彼自身も含めているのが、ずるい。


「……気が向いたら考えるわ」


 すると、矢吹が珍しく柔らかく笑った。


「奥様は体調を崩されると、旦那様にとても甘えられたそうです。

 

 旦那様が、よくそうおっしゃっておられました」


 ママにそんな可愛い一面があったなんて、想像したくない。


 でも――少しだけ羨ましい。


「ふぅん。


 で、矢吹も……」



 探るように口を開く。


「そういう“ギャップ”がある人に心を奪われたりするのかしら?」


 矢吹は、わずかに息を飲んだ気がした。


「いえ。


 彩お嬢様は、今のお嬢様のままが一番でございます」


 ……つまり、甘えが似合わないと?


 無意識に眉が寄る。


 好きなタイプの質問、完全にかわされたじゃない。


「彩お嬢様、到着いたしました」


 そっと降ろされると、腕の温度が離れていく。

 ほんの少しだけ――


 惜しいなんて、思ってしまった。


「ありがとう、矢吹」


 スカートの裾をつまんで軽く会釈すると、矢吹が一瞬だけ目を見開いた。


「……どういたしまして。


 何なりと、ご用命を」


 丁寧な言い回しのくせに、どこか声が低い。


 思わず、言ってしまった。


「……戻るときも、抱っこしてくれる?」


 刹那、矢吹の横顔がふっと赤くなった。


「もちろんでございます」


 ――そういう隠しきれない人間味、好きよ。


 自分がそう思ってしまっている自分がいた。



「……どうぞ、無理をなさらず。


 召し上がれる分だけで結構ですよ」


 矢吹の静かな声が、広い食堂に薄く響いた。


 テーブルに並んだ皿は、どれも胃に優しいものばかり。


 白粥に、生姜の効いた湯葉あん、柔らかく蒸した鶏肉に、薄味の卵とじ。


“病人食”のはずなのに、どれも丁寧で、妙に上品だ。


 別に無理なんてしていない。


 私は、出されたものは必ず完食するタイプだ。


 残すのは……なんだか自分に負けた気がするから、嫌なのだ。


 寝過ぎて逆にだるい感じは残っていたけれど、食欲は普通にあった。


 気づけば、皿の上はどれも綺麗に平らげられていた。


「無事に召し上がられたようで、安心いたしました。


 明日の朝には、すっかり本調子に戻られているかと存じます」


 そう言って、矢吹は自然な動作でまた私の額に触れた。


 ――やめてほしい。


 熱はもうないはずなのに、矢吹の手が触れた瞬間、むしろ体温が急に上がる気がした。


 この人は、若い女性にこれだけ近づいて、よくも平然としていられるものだ。


 訓練されてるのは分かっているし、プロとして当たり前なのだとは思う。


 でも――


 でもね。


 女性として全く意識されていないように見えるのは、それはそれで……


 ちょっと、寂しい。


「失礼いたします」


 その言葉が終わった瞬間、ふわりと身体が浮き上がった。


 ――え。


 お姫さま抱っこ……?


 矢吹の腕がしっかりと私の背と膝裏を支えている。


 大きくて、温かい手。


「まだ少し足取りが危うかったので。


 転倒してお怪我をされては困ります。



 それに――」


 矢吹が少しだけ視線を伏せた。


「お嬢様が……“また帰りもお願い”とおっしゃっていましたので。


 主人の仰せを叶えるのが、執事の務めでございます」


 最後の一言は、息に溶けるように小さかった。


 けれど、私にははっきり聞こえてしまった。


 横顔が――ほんの少しだけ赤いように見えた。




 ベッドにそっと降ろされると、まるで扱い慣れた高級品のように丁寧に布団がかけられる。


「おやすみなさいませ、彩お嬢様。


 良い夢を」


 その声は、今日のどんな料理よりも、優しい味がした。


 扉が閉まる音を聞く頃には、もう眠気が押し寄せてきた。


 私はそのまま静かに目を閉じた。



 翌朝――


 完全に平熱。


 身体も軽いし、少しくらいならシャワーを浴びても平気だろう。


 そう判断したのが、油断だった。


 ノックを、忘れた。


 勢いよくドアを開けた瞬間。


「彩お嬢様!?」


 そこにいたのは、上半身裸の矢吹――だった。


 髪は濡れたまま。


 滴る水が喉元から胸元へつうっと落ちていく。


 白いシャツを腕にかけたまま、動きが止まっていた。


 一瞬で、息が詰まる。


(……こんな身体で、昨日は私を軽々と抱えていたの?)


 胸の奥が、勝手に熱を帯びていく。


 背中の広さ。


 無駄のない筋肉。


 細身なのに、触ったらきっと硬い。


 色気なんて言葉で済むレベルじゃない。


 時間そのものが固まってしまったみたいだった。


「ご、ごめんなさい!」


 慌ててドアを閉め、背中が壁にずるずる落ちた。


 心臓が痛いほど速い。


 頭の中では、さっきの景色が勝手にリピート再生されてしまう。


(なにあれ……反則よ……)


 テレビの中の俳優でしか見たことないような身体。


 そんな人に、昨日私はお姫様抱っこされていた。


 ……あの腕に、また抱き上げられることを想像してしまった。


 自分でも呆れるほど、顔が熱かった。


 コンコン、と控えめなノック。


「おはようございます。


 お嬢様……


 先ほどは、大変失礼いたしました」


 矢吹の声は、珍しく少しだけ揺れていた。


「気にしないでいいのよ。


 よくあることだわ。

 

 あなたがたまにやる、ノックなしで入って来られる私の気持ちが少しは分かったかしら」


 矢吹はハッとしたように私を見る。


「お嬢様……」


 その声が低くて、ますます脈が落ち着かない。


「私、シャワー浴びてくるわ。


 ──覗かないでね?」


 冗談のつもりで言ったのに、矢吹は言葉そのものを失ったように固まった。


 ……そんな反応、可愛い。


 私は脱衣所のドアをゆっくり閉めながら、心の奥で静かに笑ってしまった。



 1人になると、嫌でもさっきの光景が脳裏に浮かぶ。


 そして――想像してしまう。


 上半身どころか、下半身にも何も身につけていない矢吹の姿を。


(……バカじゃないの、私)


 顔が熱くなるのを、手のひらで押さえる。


 矢吹は、謎が多い。


 宝月家に来る前、どんな人生を歩んでいたのか。


 何も知らない。


 本当に、何ひとつ。


(……恋人とか、いたのかな)


 その相手に、さっき私が見たように、上半身裸なんて――何度も晒していたのだろうか。


 ……想像できない。


“女性に対して極力距離を取る男”という印象が強すぎる。


 むしろ、私が初めてなんじゃないかと、都合のいい妄想まで浮かんでしまう。


 よく考えれば、私は経験なんて皆無だ。


 告白してくる男どもには、全部「ごめんなさい」を返してきた。


 初恋が藤原だったから。


 それだけの理由で、ずっと誰も入ってこなかった。


(……ほんと、さっきから何考えてんのよ)


 ぶん、と首を振る。


 矢吹の裸を想像してしまう自分を、どうにか追い払う。


 そんなとき――


 コンコン。


 控えめな、二回のノック。


「……お嬢様?


 矢吹です。

 

 お着替えを置いておきますゆえ、お使いくださいませ」


「あ……ありがとう。



 助かったわ」


 必要最低限だけ返して、髪を洗い終え、タオルで軽く水気を取る。


 脱衣所に出ると、用意された服が整然と置かれていた。


 胸元にリボンのついた薄いピンクのレースブラウス。


 ツイード生地のグレージュの台形スカート。


 私の趣味を完璧に理解している、いつもの矢吹セレクトだ。


 そのまま身につけて脱衣室を出ると、矢吹が振り返った。


「お嬢様、髪を乾かさずにいられますと、また風邪をひきますよ?

 

 よろしければ、私がやって差し上げましょうか」


「あら。


 髪のセットなんて、矢吹、出来るの?」


「私にお任せくださいませ、彩お嬢様。


 どうぞこちらへ」


 彼に促されるまま、ドレッサー前の椅子に腰を下ろす。


 矢吹の指が、私の髪を持ち上げた。


 その仕草だけで、心臓がひどく落ち着かない。


 下から上へ空気を入れるように、優しくドライヤーが当てられる。


「彩お嬢様の髪は、ぺたんこになりやすいですので。

 

 おそらく旦那様に似たのでしょう。


 せっかくの綺麗な髪が台無しでございます」


 さらりと言いながら、ブラシで毛先を内巻きに整えていく。


「毛先に動きをつけることで、アレンジしやすくなるのです」


「そ……そうなんだ……」


 自分の髪質さえ知らなかったなんて、ちょっと恥ずかしい。


「お熱くはありませんか……お嬢様」


 無言で頷いた。


「それはようございました」


 ――顔を見られたら、確実にバレる。


 さっきの裸のせいで、彼を大人の男性として意識しすぎている。


 そのあと、矢吹はヘアアイロンで丁寧に平巻きをつくり、


 最後に全体を整えるように指先で梳かした。


「いかがでございますか?」


「……さすが、矢吹ね。


 ありがとう。

 

 ちょっと見直したわ」


「めっそうもございません」


 褒められても、全然表情を崩さないところがまた腹立つ。


「さて、朝ご飯を食べに行きましょうか。


 なんだかお腹が空いたわ」


 そのまま、執事と二人で食堂へ降りた。



 ホテルさながらのバイキング――サラダと焼きたてのパン。


 体調が戻っているのか、思ったより早く完食した。


 朝食を終えると、矢吹の運転する車で屋敷を出る。


 行き先は、講演を行う――泰明大学たいめいだいがく


 胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴った。


 矢吹の横顔を見ないようにしながら。

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