姉弟
夢の理由
「……バカ……」
涙腺なんて、とっくに鍛えられていると思っていた。
三十路に片足を突っ込んだ女が、こんなことで泣くなんて——
自分でも意外すぎて、余計に胸が締め付けられた。
こんな大泣き、ほんとうに久しぶりだ。
それでも、涙は頑固に頬を伝い続ける。
落ち着いて思い返すと、私、麗眞にひどい言い方をしていた。
——あんな子じゃないのに。
彼が“バカ”じゃないことくらい、誰より知っている。
高校を出たあと、カナダに4年間。
刑事になるための勉強と、宝月家の跡取りとしての教養、立ち居振る舞い——
嫌になるほど詰め込まされたと聞いている。
パパたちのコネを使わず、力で刑事になった。
生半可な頭じゃ務まらない。
そして、彼の高校時代の同級生——矢榛
彼女のことは、ただ“弟の彼女”として知っていたわけじゃない。
実は、小学校に上がる前から二人はよく宝月の屋敷で遊んでいた。
ほとんど家族同然のように笑い合う二人の姿だった。
明るくて、人懐っこくて、でも必要なときには驚くほど強さを見せる子。
麗眞の隣にいると、幼馴染ならではの“特別な空気”が自然と生まれていた。
周りが何も言わなくても、二人の絆がどれだけ深いのか分かってしまった——
そんな二人に、あの出来事が起きたのは、
高校を卒業して間もない頃だった。
京都の旅館に泊まりに行ったときのこと。
一晩中、ふたりで甘い時間を過ごしたらしい。
あれは、誰が悪かったという話じゃない。
若さも、気持ちの強さも、全部ひっくるめて起きた“事故”だった。
椎菜ちゃんはそれからしばらくして妊娠した。
そして……初期の段階で流れてしまった。
手術が必要になったほどの、身体にも心にも負担の大きい出来事だった。
でも——
そのすべては、麗眞にだけ伏せられた。
「距離を置きたい」と麗眞に告げたとき、彼女は表向きにはこんな理由を語った。
“将来を考えたいから”
けれど実際には、彼を責めたくなかったのだろう。
あの出来事で彼の人生を縛ってしまうことが何より怖かったのだと思う。
真実を背負わせたくない。
傷つけたくない。
ただそれだけの、痛いほどの優しさだ。
そして何も知らないまま、麗眞が出した結論は——
あまりにも大人びていた。
『お前の決断を尊重する。
どんな結論だろうと、受け止める』
まだ10代の言葉だとは思えなかった。
自分の感情よりも、相手の未来を優先する。
大人だって簡単にできるものじゃない。
あのとき思った。
——本当に大人なのは、私じゃなくて麗眞のほうだったんじゃないか、と。
「彩お嬢様。
私です——」
ノックをしないで入ってくる人なんて、一人しかいない。
その“無遠慮さ”に、逆に安心する自分がいて、少し腹立たしい。
「矢吹、今は話したくない。
……一人にして」
「しかし……彩お嬢様——」
「いいから……!」
矢吹は一拍置き、丁寧に頭を下げた。
「……失礼いたしました。
外におりますので、お呼びの際はいつでも」
ドアが閉じる。
——バカ矢吹。
鈍感。
気づきなさいよ。
私が素直じゃないの、誰より知ってるくせに。
“ひとりにして”が、本当は“近くにいて”と同じ意味だって、とっくに分かってるでしょう?
……それでも、出て行くのね。
ほんと、バカ。
「バカ矢吹……」
呟いた瞬間、背中にふっと温かい気配が触れた。
「彩お嬢様。
……お呼びでしょうか」
振り返る前に、肩ごと包まれた。
静かで、けれど揺るぎない腕。
「一人になんて、させませんよ。
執事は常に、お嬢様のそばにいるものですから」
「……矢吹」
「麗眞さまから伺いました。
彩お嬢様の“ひとりにして”は、“そばにいて”と紙一重だと」
「……あの子……余計なことを」
でも、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「お嬢様。
泣くのは、恥ずかしいことではございません。
大人になっても、悲しさが薄れるわけではありませんゆえ」
やめて。
そんな言い方をされると——また涙が滲む。
落ちきれない感情が静かに溢れ出した。
気づけば私は矢吹の胸元をぎゅっと掴んでいた。
泣き疲れた、なんて言葉は似合わない歳だけど。
もう少しだけ、この人の温もりに預かっていたかった。
どれくらい泣いていたんだろう。
「彩お嬢様?
だいぶ落ち着かれたようにお見受けしますが……
いかがでございますか?」
「……大丈夫みたい。
ありがとう、矢吹」
確かに涙は止まっていた。
ぐしゃぐしゃになった矢吹のシャツが、それを物語っている。
「お気になさらず。
……ところで、彩お嬢様」
矢吹が少しだけ声を落とす。
「麗眞さまのお姉さまであるのに、ご存知なかったのですね。
なぜ麗眞さまが “あの職” を選ばれたのか――」
「知るわけないでしょ?」
理由のひとつは、パパ。
理由のふたつめは、伯母の
鑑識官で、今は現場を束ねる指揮官。
私はてっきり、そのどちらかだと思っていた。
「お嬢様。
麗眞さまは……
他ならぬ お嬢様のために 刑事になられたのでございます」
「……私?」
今、麗眞は27歳。
小さい頃は通訳になりたいと言っていた。
パパもママも、それを楽しそうに聞いていた気がする。
「私の……ため?」
矢吹は静かに、しかし確信を持って告げた。
「麗眞さまが15歳のとき――
藤原さまが亡くなられました」
胸の奥がじくりと痛む。
「麗眞さま……
いえ、正確には彼の執事・相沢の私見ではございますが。
藤原さまの死亡状況に“違和感”があったそうです」
「死亡状況に……?」
「はい。
お嬢様は彼と長く時間を共にされていました。
彼の異変に……お気づきであったのでは?」
藤原との日々を……ゆっくり思い返す。
――あった。
私が着替えて呼びに行った時、部屋の奥で激しい咳。
カフェで待っていた時、車は先に停まったのに、本人は数分遅れて入ってきた。
「発作みたいに苦しそうだった時があったわね」
「藤原さまは喘息と気管支炎を併発されていたのです。
事故の数十分前に薬を使った形跡がありました。
しかし、その吸入器が どこにも残されていなかった のです」
矢吹は一拍置き、静かに続けた。
「その“消えた吸入器” に疑問を抱かれました。
麗眞さまは刑事として捜査を進める道を選ばれたのでございます」
私は知らなかった。
最愛の椎菜ちゃんを日本に置いて、カナダで学び直してまで。
そんな覚悟の理由が――私だったなんて。
……なのに、私は。
ヒドいことを言った。
「矢吹。
麗眞……まだ食堂にいるかしら?」
矢吹からの返答はなかった。
ただ、深くうなずいた。
それだけで、十分だった。
食堂に行くと、麗眞の姿はなかった。
皿を下げていた相沢さんが言う。
「おや。
彩さま。
麗眞坊っちゃまでしたら、リビングにいらっしゃいますよ」
「ありがとう」
リビングのテーブルで新聞を大きく広げ、何かを探す麗眞がいた。
「……麗眞」
「ん?
姉さん。どうした?」
振り返った彼に、私は深く頭を下げた。
「ごめんなさい……!
バカとか言って。
椎菜ちゃんのことまで持ち出して、あなたを傷つけた。
あなたが彼女をまだ大切に思ってるのも……知ってるのに」
言葉が震えた。
「矢吹から聞いたわ。
貴方が刑事になった理由……
私のため、だったんでしょ?」
麗眞は照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「当然だろ。
……ちなみに、親父もおふくろも調べてるから。
藤原さんのこと」
「え……?」
そこまでとは思っていなかった。
「気が向いた時でいい。
藤原さんのこと、教えてよ。
どんな小さなことでもいい。
いちばん近くにいたの、姉さんなんだから」
「……うん」
「オレも悪かった。
藤原さんが姉さんにとってトラウマなの、わかってなかった。
……だからこそ、姉さんが信頼できる警察にしたいんだよ」
「……うん。
お願いするわ」
麗眞は、私が刑事・検事を信頼していないのを知っていた。
おそらく相沢さんか矢吹から聞いたのだろう。
「で、何してるの?
眠そうな目で新聞なんて漁って」
「調べてたの。
その時期の記事。
現場写真とか残ってたらと思って」
「麗眞坊っちゃま。
旦那さまの書斎に記事がございますよ」
「え、そうなの?」
あの書斎、やたら遠い。
「行くわよ、矢吹」
私はふらつきながら螺旋階段を昇り降りした。
途中で完全に足が止まり、結局矢吹にお姫様抱っこされる。
父の書斎でファイルを取って戻ると――
「サンキュー、姉さん。
親父には俺が持ってったことにしておく。
姉さんは怒られねぇから」
麗眞はファイルを抱えながら、そう言って笑った。
少しだけ、大人びた笑い方だった。
生意気なのよ、麗眞のくせに。
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