『ドン・キホーテ』を読む─鏡としてのメタフィクション
『やりなおし世界文学』という本に噛みついたのは、「世界文学」と言いながら『ドン・キホーテ』が入っていないのである。だいたい欧米中心の文学で、アメリカのどうでもいい文学を紹介しながら、肝心の世界的名作が抜けている。そのからくりは Amazon(アメリカ)でのアンケートだったからで、アメリカ的な“辺境の文学趣味”がそのまま反映されてしまったのだと思う。
ナボコフだって堂々と『ドン・キホーテ』を入れているだろう!
「世界文学」という名前を掲げるなら、まずそこを落とすのはどう考えてもおかしい。そんな不満から、自分の中で『ドン・キホーテ』を読み直す機運が高まった。
大江健三郎『憂い顔の童子』を読んだとき、どこかセルバンテスの「憂い顔の騎士」へのパロディのように感じた。そこからドン・キホーテへの興味が再燃し、前編はドレ版の簡略版で読んだものの、後編は牛島信明訳の岩波文庫で「正面から」読むことにした。
『ドレのドン・キホーテ』
図書館で『ナボコフのドン・キホーテ講義』を読んでいて気になったところがあったので、その場で検索して借りてきた。こういうときの図書館の機動力は本当に便利だ。
『ドン・キホーテ』自体は文庫で買ってあるのに積読状態で、今日に至るまで放置していた。前編だけ読むなら、このドレ版でも十分だと思う。なにより、ドレの版画が見事で、絵に物語が引っ張られていく。
ドレの絵が抜群にいいので、『ドレのドン・キホーテ』は素直におすすめできる。文庫版もあるが、単行本のほうが絵が大きいから断然いい。Amazonの中古で600円は安い。前編だけだから安いのかもしれない。
セルバンテスは、当時氾濫していた騎士道物語へのパロディとして書き始めたのだが、書くほどに面白くなってしまい、ミイラ取りがミイラになった。
考えてみれば、ドン・キホーテのようなオヤジは現代にも普通に存在する。そう、ネトウヨである。アニメの戦争ものや陰謀論動画を見て日本を守らねばとイキり、現実と虚構の線引が曖昧になる。これは 17 世紀スペインの問題ではなく、今の日本にも当てはまる。
後半には式典僧が登場し、芝居(創作)談義になる。そこで「最近のフィクションはなってない」と語られるのだが、これが完全にメタフィクション的で面白い。
また“ムーア人やイスラムは敵である”というキリスト教的騎士道精神がドン・キホーテの根底にある。セルバンテスの時代のスペイン人にとっては当たり前の感覚だったのだろう。それが保守的価値観の最後の残響として残っており、その価値観が薄れた時代だからこそ、作品が喜劇となっているのかもしれない。今読むと、思ったより考えさせられる。
行き過ぎるとコスプレを始めたり、三島ゴッコをするかもしれない。
ドン・キホーテは旅の先々で散々な目に遭い、その原因となった騎士道物語の蔵書はまとめて焼かれてしまうのだが、こんな出来事は現実にもありそうだ。妻や娘が父親の本棚にある右翼本をゴミ袋に入れてしまう、みたいな。
それでも彼はサンチョ・パンサを従え、第二回の冒険に出る。いつの間にか従者ができているのである。
『ナボコフのドン・キホーテ講義』によれば、ドン・キホーテとサンチョ・パンサ以外の挿話は「読み飛ばしていい」とされている。ただ、その挿話が後のドン・キホーテの行動原理に影響したりもする。どれも騎士道物語あるあるのロマンスで、同じような物語が繰り返されるからこそ、ドン・キホーテは物語中毒になり、現実と虚構が混線していく。
彼にとっては“現実”こそ悪魔の魔法で歪められた世界で、虚構のほうが真実なのだ。これはネット右翼の世界観の構造と驚くほど似ている。
それでもサンチョ・パンサの従属ぶりだけは、もはやドン・キホーテへの愛と言ってもいい。二人の関係は、この物語の数少ない健全な部分なのかもしれない。
「“狂気”のドン・キホーテ」
後編のドン・キホーテは、もはや自分の狂気に騙されない。
旅籠は旅籠であり、田舎娘は田舎娘。
そこにいるのは、現実と物語の狭間で思索する懐疑的なドン・キホーテである。
さらに後編は、現実に出た贋作に応じて書き直されたため、物語そのものが強いメタフィクション性を帯びてくる。作者を「ムーア人の記録を翻訳したスペイン人」とする語りの入れ子構造が前面化するのも後編だ。
「鏡としてのドン・キホーテ」
後編の面白さは、物語の中に『ドン・キホーテ前編』の読者が登場することだ。
郷士や学士カラスコが前編の内容を引き合いに出して主人公を批評し、止めようとする。物語が自分自身を読み、自分自身を批評しはじめる。
この「作品が自分を読み返し書き直す運動」は、大江健三郎「晩年の仕事」にも受け継がれている。
「強くなるドン・キホーテ、批評家になるサンチョ」
森の騎士との対決、そしてライオンとの“勝負”(実質不戦勝)によって、ドン・キホーテは連勝し、「憂い顔の騎士」から「ライオンの騎士」へと名乗りを変える。
旅の語りも巧みになり、恋の仲介までするようになる。
一方のサンチョ・パンサは、いよいよ饒舌さに磨きがかかり、ドン・キホーテの最良の批評家として読者を翻弄する存在になっていく。
「“読みながら旅をする”という読書体験」
青春18きっぷを使ってただ乗るだけの旅のお供にしたのだが、ローカル線とドン・キホーテの遍歴との相性が抜群だった。
新幹線では味わえない、「寄り道しながら読み続ける」感じが遍歴の騎士のリズムとよく合う。
後篇2はドン・キホーテが騙されて傷つく回で、ドレの版画でも特に痛ましい場面が多い。
それに反比例してサンチョがどんどん主役化していくのが面白い。
「“夢”として読むドン・キホーテ」
騎士道物語は元来叙事詩だった。
その散文化と批評役としてのサンチョの存在が、ドン・キホーテという人物を単なる妄想家ではなく“夢を語る人”にしている。
贋作ドン・キホーテの登場人物が本編に出てきて否定されるくだりは、現実すら物語に吸収するセルバンテスの凄みを感じる。
ナボコフや大江健三郎が惹かれたのは、このメタ構造と諧謔性なのだろう。
「ナボコフ講義:滑稽と痛みの同体」
『ナボコフのドン・キホーテ講義』を読むと、彼が最初は作品を貶しながらも、読み進めるうちにセルバンテスの構成の緻密さに驚いていくのがわかる。
ドン・キホーテの闘いをテニスの試合に見立て、勝敗を分析するユーモアは、ナボコフらしい尊大さと愛情の混ざり合った批評だ。
ナボコフは言う。
「ドン・キホーテの行動原理は妄想ではなく“夢”だ。」
その夢を現実が何度も砕くからこそ、この小説は深い痛みを持っている。
「帰還と“臨終の詩人”」
最後にアロンソ・キハーノとして正気に戻る場面は、詩人の臨終のようだ。
サンチョ・パンサが従者としての自分を初めて自覚するのも胸を打つ。
ドン・キホーテは最後まで「イメージを語る人」だった。
恋するドゥルシネーアが最後まで姿を現さないのも象徴的で、完全に“詩”として作品が閉じていく。
「多くの作家が自分の“ドン・キホーテ”を持つ理由」
贋作との対決、自作の書き直し、語りの入れ子、多重の作者。
こうした手法は、大江健三郎、ナボコフ、カフカなど「方法論で書く作家」たちがこぞって惹かれるポイントだ。
『シン・仮面ライダー』の「新たな仮面ライダーと戦う」構図でさえ、すでにドン・キホーテがやっている。
現代文学の多くは、どこかでドン・キホーテの影がある。
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