小島信夫『別れる理由』を読む

 坪内祐三『『別れる理由』が気になって』を読んで、小島信夫の『別れる理由』が単なる家族小説の枠を超えた、文学としての傑作であることを強く実感した。

 本作は1968年から1981年までの約12年半にわたり、『群像』で連載され、前田永造を中心に夫婦・親子・男女の愛の錯綜を描きつつ、戦後日本社会の通俗性と変化を浮き彫りにする超大作である。

 坪内祐三は本書の導入部で、この作品が旧来の小説形式を破砕し、メタフィクションとして同時代性を捕らえている点に注目している。『別れる理由』は単なる私小説的描写ではなく、永造という登場人物を通して作家自身の視点、批評、そして文学の可能性を問う実験的な小説であることが、坪内の解説によって明確になる。


 ストーリーは、永造の浮気と愛の複雑な交錯、後妻京子との生活、そして亡き妻陽子とのW不倫関係を中心とした深層心理の描写にある。

 しかし、それだけではなく、作品はメタフィクションとして現実の文壇人物、柄谷行人や藤枝静男らを登場させ、文壇パーティーという舞台でカーニバル的なポリフォニーを実現する。ここでの対話は単なる人物描写を超え、シェイクスピア『真夏の夜の夢』的な多声の劇場空間となり、登場人物の声が重層的に交錯する。

 ヤン・コットの評論『シェイクスピア・カーニバル』に示されたように、この多声性はバフチンの「ポリフォニー論」に通じ、文学作品における同時代性、作家が生きて書いた12年あまりの社会的混沌に対応している。


 さらに、電話による対話は本作に独特の黄泉性・神話性を与える。永造と作者が電話で語り合う場面は、現実と幽界、現在と死者の世界を結びつけるようや、神話や仏教観にも呼応する象徴的装置となっている。

 ここでの会話は、作家と登場人物の境界を曖昧にし、文学的リアリティと幻想の交錯を生み出す契機になる。

 永造が作家を批判する場面では、『ドン・キホーテ』のメタフィクション性と類似した構造が見られ、読者は虚構と現実の境界を意識せざるを得ない。


 夢の描写も重要である。永造や関係者が繰り広げる乱交や変身の幻想は、シェイクスピアの戯曲的な構造を内包しつつ、深層心理の欲望や不純性を映し出す。シェイクスピアのソネットに見られる純粋な一人称の抒情性とは対照的に、戯曲や『別れる理由』では共同体の視点からすれば個人の欲望は不純でもあり、現実社会の規範や倫理と衝突する。

 永造が女性雑誌で人生相談しているのも本末転倒であり、そもそも永造自身が不純な人なのである。

 永造の視線は映像的であり、時代を映すカメラとして社会の通俗性や愛の混乱を観察する役割を果たす。


 精神分析や哲学的観点も組み込まれている。ベンヤミンの『パッサージュ論』における生活精神、プラトンの洞窟の比喩、ラカンによるリビドー概念の再定義などを通して、欲望、主体、無意識が文学的に構造化される。柄谷行人『マルクスその可能性の中心』を批評したり。

 永造の観察、夢、電話での対話は、この理論的枠組みの中で深層心理と社会現象の交差点として位置づけられるシステム(構造)を明らかにする。

 そのシーンのクライマックスが文壇パーティーで藤枝静男と柄谷行人と登場人物である前田永造が作者に成りすまして鼎談を行うのだ。それを作者は嫉妬しつつ遠くから眺めている。それは小説の仕組みとして外部から書く物語なのだ。しかし、その方法論は批評的(メタフィクション)であり、作者と登場人物の対決として描かれる。それは登場人物の前田永造も作者の分身であり、合わせ鏡のように世界(フィクション=幻想)を覗くのだ。

 そしてプロレスのような大庭みな子の乱入(愛だと彼女はいう)。ドタバタの様相を帯びたところで盟友の森敦の登場で戯曲のような二人の対談(会話)で終わっていく。


 本作の読者層は少ないが、その理由は露出の低さにある。プルースト『失われた時を求めて』が文庫で広く読まれているのに対し、『別れる理由』は全集でしか読めず一冊9000円。にもかかわらず、作家や評論家たちからの注目度は高く、その文学的評価は確立している。

 総じて、小島信夫『別れる理由』は、1968年以降の日本社会と愛の錯綜を描く現代文学の極北であり、メタフィクション、カーニバル的ポリフォニー、深層心理、シェイクスピア的構造、神話性を統合した稀有な作品である。

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