新興俳句の戦争感覚──赤黄男と白泉の俳句

 昭和前期の俳句史において、新興俳句は形式的革新や個人主義的表現として語られがちである。

 しかし、富澤赤黄男の戦中俳句や渡辺白泉の戦争俳句を検討すると、新興俳句の俳句観は、歴史的現実との緊張を内包する感覚的知覚として読み解くことができる。


 赤黄男の『天の狼』に収められた「蝶墜ちて大音響の結氷期」は、戦意高揚俳句としての役割を果たしつつも、実際には北方・千島列島での体験に基づく表現である。この句は、戦争という巨大な現実の中で個人感覚が凝縮された瞬間であり、ベンヤミン的に言えば歴史のアウラの断片として機能する。捕虜を詠んだ俳句や日記での雑誌改名のエピソードも、表現者が国家体制と折衝する過程を示す。個人の感覚と国家の圧力が交錯する中で、俳句は現場の時間と空間を言語に閉じ込める媒体となる。


 一方、渡辺白泉の「戦争が廊下の奥に立ててゐた」は、戦争の存在を日常の空間に暗示的に立ち上げた作品であり、戦争の恐怖や不在感を感覚として体現する。赤黄男の前線俳句が現実の戦場から直接感覚を抽出したのに対して、白泉は日常の内部に戦争の影を潜ませることで、戦争の心理的アウラを照射する。この二つの作品は、戦争の現実と個人感覚が俳句という断片にどう結晶化するかを示す好例である。


 これらを通して、新興俳句の俳句観は単なる形式実験にとどまらず、歴史の圧力を感覚として受け止め、断片として言語化する精神性として理解できる。戦前・戦中の俳句は、表現者の自由と体制の圧力の間で揺れ動く感覚の痕跡を残す。ベンヤミン的に言えば、赤黄男と白泉の戦争俳句は、歴史の「断片的アウラ」として現在に光を投げかけるものである。

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