第2話 12/27 浜野奏汰


 うちには今、野良犬がいる。

 本当の犬っていうわけじゃない。でも、拾われたばかりの野良犬みたいな奴。


 ビクビク怯えて、こっちの顔色ばかりうかがって、何かされないかと隅っこで震えてる。もう同居を始めてから4年経つっていうのに、初日の顔合わせの時から全然変わっていない。


 そいつは母親の再婚相手の連れ子ってやつで、俺より1つ年下。最初は弟ができたと言われてもピンとこなくて、同居する他人が増えたというだけの感覚だった。

 背が小さく華奢で、女子と間違えるほどの大きな目が印象的だった。手足も細くてガリガリで、ちゃんと飯食ってんのか? と訝しく思うほど。


 母さんが言うには、こいつには姉がいるようだが、姉弟揃って母親に似ているらしい。だから母さんは、この姉弟が嫌いなんだそうだ。俺は姉の方には会ったことがないが、何となく分かる。

 要するに、母さんよりも顔が整っていてかわいいんだろう。


 こいつの前で、母さんは事あるごとに母親、つまりは元嫁サンのことをののしる。顔がブスだの、ババアだの、自分に旦那と息子を奪われて仕事しかできないかわいそうな女、だの。聞こえてくるこちらの身にもなってほしい。くだらない嫉妬が見え見えだ。息子として呆れてしまうほど、母さんという人は幼稚な性格なんだろう。


 母さんはもともと働いていた会社で今の夫である浜野サンと出会って、親父を裏切る形で不倫して、妊娠して、揉めに揉めて離婚した挙句に俺の親権を奪い取って浜野サンと再婚した。

 親父は会社を辞めてフリーランスになったばかりだったから、収入が安定しておらず、養育実績も積んでいないと判断されてしまったようだ。だから中学生だった俺は、母さんについていくしかなかった。


 浜野サンの元嫁さんは、いわゆるバリキャリってやつで、収入が母さんよりも浜野サンよりもずっと上だったらしい。可愛らしいルックスとしゃんと張った背筋が印象的だった。弁護士事務所から出てきた母さんたちの後ろに、その人を見かけた。

 強そうな人だった。たぶん、弁が立つし気も強いんだろうな、と思った。すぐ感情的になる母さんが敵に回して勝てる相手ではなさそうだ、と。


 思い返せば思い返すほど、不思議でならない。

 あの母親から、どうやったらこんなガリガリの野良犬みたいな息子ができるんだ? あの人の印象からは、こいつは、優輝ゆうきは、まったくと言っていいほどかけ離れていた。


 常におどおどした態度で、母さんに押し付けられた家事を日々こなしている。学校が終わってまっすぐ帰宅し、掃除も、洗濯も、やり始めて1週間ほどでほぼ完ぺきにこなすようになった。ただ、料理だけは苦手なのか、それとも母さんのプライドなのか、キッチンには後片付けと買い出し以外は立ち入らないように言われているようだ。

 一度、キッチンの周りでうろうろしていて何事かと思ったら、喉が渇いたけど母さんがいるから入れないと、情けない顔をしていたことがあった。


 我が家のヒエラルキーは、母さんがトップで、優輝が最底辺。これでもかというくらい、母さんは優輝のことをいびり倒している。いじわるな継母とはよく言ったものだ。

 まあ、旦那の元嫁に顔が似ているから、単純に気に入らないんだろうが。



 俺は、この優輝という義弟の扱い方が分からなかった。


 家の中で顔を合わせても、上目遣いにこちらの様子をうかがっているだけで、何を言うでもない。最初こそ、話しかけた方がいいのかと一応気を使ってみたりもしたが、そうすると俺が母さんに睨まれるのだ。優秀な息子があの女の子供と仲良くするなんてありえない、と言わんばかりに。


 母さんからのいびりは、進学先にも顕著に表れた。

 俺は有名私立大学付属の進学校、優輝は学区内の公立高校だ。


「そもそも高校にも行かせなくていいじゃない。中卒で働かせれば? お金の無駄だわ」


 などととんでもないことを言い出す母さんに、さすがに露骨すぎるだろうと口をはさんだ。ご近所さんからヒソヒソされても知らないぞ、と。

 世間体をやたらと気にする母さんは、浜野サンとも相談したらしく、しぶしぶといったていで公立高校への進学を許可した。


 びくびくと小鹿のように震えながら、こちらの様子をうかがい、危害を加えられないように必死に家事をしているのが、優輝の日常。

 俺にはこいつの扱い方が分からない。



 俺は苗字が浜野に変わる前も後も、何だか毎日がフワフワした感じで、自分が自分でないままに時間だけが過ぎている感覚だった。

 どうでもいい。

 母さんが誰と再婚しようが、再婚相手との間に子供が生まれようが、どうでもいい。


 どうせあと少しで成人するんだし、そうしたらこのギクシャクした家族ごっこはおしまいだ。大学はうんと離れたところを選んで、一人暮らしをしよう。そうして、ようやく俺はこの歪な空間から解放されるんだ。

 そう思って、毎日をただ何となくやり過ごしていこうと、そう、考えていたんだ。


 でも、そう簡単な話じゃなかった。

 優輝のやつは、母さんだけじゃなく、実の父親であるはずの浜野サンからもひどい扱いを受けていた。


 浜野サンはどうやら、娘である姉の方だけを可愛がっていたようで、息子の優輝のことはまるで空気みたいなシカト具合なのだ。

 おはよう、おやすみといった挨拶もないし、話しかけられた時にだけ適当に返事をするだけ。その時も、息子の目を見ようともしない。

 俺のことは奏汰くんと呼び笑いかけてくるくせに、実の息子であるはずの優輝には極力関わろうとしない。


 こいつは、実の親からもこんな扱いなのか。

 俺の感情は更にぐちゃぐちゃになっていった。


 いっそ本当に何もできない、かわいくもないただのクソ野郎だったら、こんな風に揺さぶられることもなかっただろうに。



 優輝の態度もまた、俺の心を乱した。


「一度くらい、振りでもいいからキレていいんじゃねえの?」


 そう言ったことがある。残飯しか食べさせてもらえず、殴られた脇腹をかばいながらよたよた歩いていた優輝。言い返しもせずにやられっぱなしになっているのが、どうにも納得できなかった。

 でもあいつは、曖昧に、困ったように笑うだけで、


「そんなことをしたって、どうにもならないから……」


 掴んだ腕の細さに驚き、諦めしか見えない表情に困惑した。

 こいつはすでに、抗おうという気力さえ失ってしまっているのか。すべてを諦めて、ただ息をしているだけの人形みたいになってしまっているのか。




「お兄ちゃん、コーヒーあたしの分も入れてよ」


 かけられた声に、我に返った。キッチンからリビングを見ると、母さんがこちらを見ていた。

 さっき優輝が買ってきたというホットスナック、あれは肉まんだったのか。それを頬張りながら、母さんは言う。


「あのガキ、ピザまんって言ったのに普通の肉まん買ってきやがって。しかも冷めてるし。買い物もロクにできないなんて、とんだ出来損ないね」


 ふん、と吐き捨てるように。まったく聞いていられない。


「売り切れてたんじゃねえの? そんなことでいちいちキレんなよ」


 イライラを隠しながら、コーヒーを入れてやる。カップを渡す時に、指先が触れそうになり、思わず手を引いてしまった。


「あっぶな! もう、何よ急に」


 危うく熱々のコーヒー入りカップを落としそうになり、母さんが声を荒げる。


「ああ……、ちょっと熱くて」

「もう、気を付けてよ!」


 怒りながら、ソファに戻っていった。

 俺はシンクに向かい、思い切り手を流水に突っ込んだ。けたたましい水音を上げながら、冷えた水道水が手を凍えさせていく。


 汚い。汚い。汚い。


 手が真っ赤になるのもかまわずに、俺は手を洗い続けた。


 汚い。洗わないと。


 5回ほどハンドソープを付けなおしたあたりで、ようやく少し落ち着いた。早くここを離れよう。母さんという化け物から、少しでも距離を取らないと。


 あまりにも長い間洗い続けていたためか、真っ赤になった手はかじかんで感覚がなくなっていた。

 逃げ出すようにリビングから出ると、見計らったかのように玄関の扉が開いた。大きな懐中電灯を持ち、赤いマフラーに鼻まで埋めて亀のように首をすくめた優輝が、大きな息を吐いて入ってきた。


 優輝は俺が立っているのを見ると、驚いたように玄関に立ちすくんだ。


「か、奏汰……くん?」


 返事もできないくらい、俺はまだ動悸が治まっていなかった。


「どうしたの、真っ青だよ……?」


 こういうところだ。

 いっそのこと嫌いきってくれればいいのに。憎んでくれればいいのに。


「うわ、手真っ赤! 早く温めないとしもやけに……」

「いい、いいから」


 震える手で、近寄ってくる優輝を押し戻して、2階へ。そうしてふと思い出して、リビングへ続く扉を開けようとするあいつに声をかけた。


「コーヒー、キッチンに、入れたままになってるやつ、あるから。俺の部屋まで持ってこい」

「え、あ、うん」


 上手く息ができていない。とにかく、今は早くあの化け物から距離を取りたい。


 ふらふらと階段を上り、奥の部屋までたどり着くと、俺はベッドの上にへたり込んでしまった。

 冷えて真っ赤になった手は、まだ震えが治まっていない。


 もう、だいぶマシになったと思っていたのに。気を抜いていると、ふいうちのようにこんなことになってしまう。

 原因は分かっている。


 今から5年近く前の話だ。俺が小6だった時。


 学校から帰って、当時住んでいたマンションの玄関を開けたら、親父のとは違う、見覚えのない靴があった。

 会社を辞めて独立したばかりだった親父が、仕事関係の人と何やら相談しながら難しい顔をしていることはこれまでもあった。

 でも、玄関に並んでいたのは男物の靴と、見覚えのある母さんの靴。


 母さんのお客さんが来ているのかな。そう思って、そっとリビングへと続く扉から中をうかがった。


 そうして、見てしまったのだ。

 母さんが、知らない、親父ではない男と、裸で抱き合っている姿を。


 見たこともない、俺の知らない顔をした母さんが。素っ裸で。いつも俺や親父とくつろいでいるリビングのソファの上で。満点のテストを褒めて、撫でてくれた手で。ご褒美に夕飯はハンバーグにしようねと、笑っていた唇で。


 親父にも、俺にも、優しかったはずの、母さんが。

 …………。


 気づいた時には、家から飛び出していた。

 なりふり構わず走り回って、近くにある公園のトイレで嘔吐していた。


 あれは誰だ。


 ぐるぐると回る視界の中で、自問する。


 あれは本当に母さんだったんだろうか。あんな、気持ちの悪い顔をして、気持ちの悪い声を出して、気持ちの悪いことをしていた女は。

 相手が誰だったかなんてどうでもいい。


 気持ち悪い。


 見た光景を思い出して、再び嘔吐。胃の中はもうからっぽで、胃液しか出てこないのに。

 体が拒絶している。思い出すなと、もうやめろと拒絶している。

 それなのに、頭の中では先ほどの醜悪な光景が何度も繰り返されて、ただただ苦しいだけだ。


 どうやって公園から帰ったのか、帰ってからどうしたのか、記憶がぼんやりしている。はっきりしているのは、それ以降、母さんが化け物に見えて仕方なくなったということ。


 そして、中学、高校と学年が上がるにつれて、言い寄ってくる女子たちにも、何も感じなくなってしまったということ。

 目の前で可愛くふるまい笑うこいつらも、きっと、裏の顔はあんな風なんだ。無意識にそう拒絶してしまうようになった。


 表面上、当たり障りないように取り繕えば、なんてことはない。幸い、嘔吐するほどに拒絶反応が出るのは、皮肉なことに母親だけだった。


 会話するだけなら、今はもう問題ない。何でもないようにふるまえる。

 だが、物理的な接触が、まだダメなようだ。

 先ほどのように、指先が触れただけで過剰反応してしまう。汚れた、汚い、そう感じて、強迫観念に駆られて触れたところを洗い続けてしまう。


「いつまで続けないといけないんだ、こんなこと……」


 絞り出すように声が出た。


 どうして、親父は裁判に負けたんだ。もっと死に物狂いで、俺の親権を主張してくれればよかったのに。養育実績ってなんだよ。母親有利ってなんだよ。

 どうして何もしてない俺が、こんなに苦しまなきゃいけないんだ。




「奏汰くん……?」


 控えめにドアがノックされて、小さな声が聞こえた。


「コーヒー、持ってきたよ」

「ああ」


 立ち上がる気力もなくて、優輝が入ってくるのを待っていた。


「…………」


 少し待っても、ちっともドアが開かない。


「……入れよ」

「えっ」


 ドアの向こうで、びっくりしたように声が跳ねた。


「え、い、いいの……?」

「いや、入れよ。いいから」


 何をそんなに躊躇しているのか。

 そう思ったが、ああ、そうか当然か。


 俺がこいつと目を合わせたのも、会話をしたのも、もう何か月ぶりというくらい珍しいことだったからだ。穏便に、事を荒立てないように、俺のトラウマスイッチに触れないように。そうやって過ごすうちに、すっかり優輝を無視し、視線から逃げるようにふるまう癖が身についてしまっていた。

 我ながら情けない話だ。


 自己防衛反応と言えば聞こえはいいが、要するに。

 俺は、自分よりもみじめな優輝を近くで確認することで、心を保とうとしてしまっている。


 こいつよりはマシだ。俺はまだマシなんだ。俺はまだ、大丈夫なんだ。


 ああ、情けないな、俺。

 小さい頃に好きだったアニメのヒーローなら、きっと優輝みたいな弱くてみじめなやつを守ろうと戦うんだろうに。俺は戦うことすらできずに、自分より弱いやつの存在を確認して、安心してしまっている。


「あの」


 すぐ近くで声が聞こえて顔を上げると、心配そうな顔をした優輝がコーヒーを持って立っていた。ドアが開き閉まる音さえ、今の俺には入ってこなかったようだ。


「やっぱり、どこか具合悪いんじゃ……」


 なんてお人よしだ。

 あんな目に遭ってさえ、人の心配をするなんて。


「……下で何もなかったのか?」

「え?」

「……ピザまんじゃないって、キレてたぞ」

「あー……」


 口ごもって、


「普通のやつしかなかったから……。……うん、リモコン投げられた」


 ここ、と、肩のあたりをさすりながら答える。


「これ着てたから、あんまり痛くなかったけど」


 俺のお古の薄いダウン。サイズが違いすぎて、袖なんて指先しか出ていない。こんな雪が降るような寒さに、秋頃に着る薄手のダウンだなんて。どうせその下も、ろくに服を着こめていないんだろう。

 本当に、この家に巣食っているのは化け物だ。


「持てる? それか、机に置こうか?」


 俺の手が震えたままなのを見て、結局机にコーヒーを置いたようだ。


「……それじゃ、僕はこれで」


 少しもじもじと、何か話したそうにしつつも、優輝は踵を返した。

 その時に、ひらりと何かが俺の足元に舞い落ちた。


「……おい、何か落とし……」


 拾い上げると、


「名刺?」


 あまりにも優輝に縁がなさそうなものだった。


「あ!」


 慌てて取り返そうと、手を少し持ち上げてから、優輝はぐっと堪えるような仕草をする。これまで言い返したりやり返したりするたびに、きっとそれ以上に酷く辛い仕打ちをされてきたんだろう。


「……神社の人? いつ会ったんだこんな人」

「えと、さっき、コンビニの帰り。困ってたから、助けた。それだけ……」


 おどおどしながら、言葉を紡ぐ。

 俺は、何だか一抹の不安を感じた。

 そうしてスマホをポケットから出すと、名刺の写真を撮った。優輝はきょとんとしながらそれを見ている。


「お前、知らない大人から不用意に物を受け取ってんじゃねえよ……。こんなもん、本物かどうかすら分からないだろ。危ない奴だったらどうするんだ」

「えっ」

「どういういきさつでこれ渡されたんだ?」

「え、えっと。困ったことがあったら、ダメになる前に電話してこいって……」

「神社の人が?」

「……公的機関? にも、繋げられるからって……」

「…………」


 ほんの短い時間、それも真っ暗な夜道で少し会話しただけの初対面の人に、なぜこいつが虐げられていると分かったのだろうか。街灯のぼんやりした灯りなんかで、雪の降る中、こいつの傷を視認できたとは思えない。


「……やっぱり胡散臭え」

「えっ」

「大体、電話してこいって言ってもお前、スマホ持ってないだろ」

「そ、それは……」

「このご時世、公衆電話だってほとんど見かけないし」


 言われて優輝はうつむき、ぼそりと呟いた。


「……お守りにしようと思ったんだ」

「お守り?」

「辛くなった時に見る、お守り……」


 思わず顔を上げて、優輝を見た。

 薄くガサガサの唇を噛みしめて、苦しいのをこらえるような顔をしていた。


「僕みたいに何も持ってない、何もできないやつにも、助けてあげたいって、ありがとうって、そう思ってくれる人がいるって。だから……」


 言いながら、ぽつりと、一粒涙がこぼれたのを見てしまった。


 俺は驚いて動けなかったが、こいつ自身も驚いたのだろう。慌てて目をこすり、ぐっと何かを堪えるように、両眼をきつく閉じて唇を噛んだ。


 それを見て、唐突に理解した。


 ああ、こいつは、もう限界なんだ。

 これ以上耐えられないところまで来ているんだ。


 本人に自覚はないかもしれない。でも、少し希望を口にしただけで、感情が制御できなくなってしまうくらいにまで、自分自身を抑え込んできたんだ。


 このままじゃ駄目だ。

 何か、少しでいい。不安定すぎるこいつに、小さな支え木程度にでもなってやれる何かがあれば。


 ふと手元の名刺を見た。

 飾り気のない真っ白い四角に、黒文字で『赤鐘』と書かれている。そして、電話番号と神社の名前、そしてその住所。至って普通に見える名刺だが、苗字だけ? ひょっとして源氏名か何かか?

 それ以外に怪しいところはなさそうに見える。


 ……いや、ダメだろ。いかんせん、あまりにも胡散臭すぎる。

 神社の名をかたった変な宗教勧誘だったり、何かしらの犯罪に巻き込まれるものだったり。優輝は普段テレビもネットも新聞も見ないから、世の中で起こっている犯罪や事件など、知りもしないだろう。こいつの世界は、学校とこの家の中だけだ。


 そこまで考えて、一気に不安になった。

 ダメだ。この先どうするにしても、情報から隔絶されてしまっているこいつには、助けを呼ぶ方法も、どこに助けを求めればいいのかも、分からないのではないか。

 かと言って、俺から母さんや浜野サンに何を言ったところで駄目だろう。むしろ母さんは、故意にこの状況を作り出している感じまである。


 どうしたものか。

 俺が難しい顔で考え込んでいると、少し落ち着いたらしい優輝が、鼻をすすりながら「あの」と声をかけた。


「それ……、返してもらってもいい?」


 言われて、まだ俺が名刺を持ったままだったことに気付く。


「持つのは勝手だが。下手に関わらない方がいいと思うぞ」

「うん……」


 俺だったら、その名刺にある名前、電話番号などをネットで調べて、妙な奴じゃないかなどを確認するところだが。おかしな奴だったら、被害情報がネットやSNSに上がっていても不思議ではないからだ。

 だがスマホも持っていないこいつには、情報を手に入れるすべがない。


 代わりに俺が調べて教えたとしても、こいつが俺を信用して、その情報を信じるかどうかは分からない。

 うーん、とうなる俺を、優輝は不思議そうに見ている。


「……くしゅっ!」


 唐突にくしゃみをして、ブルっと体を震わせた。

 当たり前だ。雪の降る中、そんな薄手のダウンにマフラーを巻いただけの姿でウロウロしていたんだから。


 風呂に入れと言っても、こいつは家族全員が入った後でないと、入浴を許されていない。順番を守らなかったらまた、母さんに殴られるだけだと分かっている。入れるだけありがたいと思え、とかなんとか言われて。

 かと言って厚着しようにも、こいつには今着ている服以上に温かい防寒着などないのだろう。


「あー……ちょっと待ってろ」


 立ち上がり、クローゼットを開けると、俺には少し小さくなったセーターを引っ張り出した。

 深いネイビーのVネックセーター。厚めの糸で編まれているし、優輝にはサイズが大きいだろうから、見た目より温かいだろう。


「ないよりマシだろ」


 手渡すと、驚いたように固まって、少し赤くなった目をぱちぱちさせた。


「ほら、ここで着ていけ。俺の服着てるってバレたら、またなんかされるだろ」

「あっ、うん」


 ダウンを脱ぐと、こいつの細さが明確になった。細いなんてもんじゃない。まるで肉がない。胸も腹もペタンコだし、骨格だって、俺と並ぶと高校生とは思えない小ささだ。

 栄養が足りていない、ということだろう。


 明らかに、年齢相応の体格ではない。身長も、180センチ近い俺と比べて、優輝は150センチちょっとしかない。出会ったばかりの4年前から、こいつは少しも背が伸びていないのではないだろうか。

 声も男にしては比較的高めだし、髪もめったに切らせてもらえないために伸びっぱなし。遠目に見て女子中学生と言われても、反論できないだろう。むしろ、女子中学生の方が体格がいい可能性も。


「残飯しか食えてないもんな……」


 掠れた声でぼやいたけれど、セーターを着ている最中だった優輝には届かなかったようだ。


「あったかい……」


 着古したシャツの上にセーターを着て、少しはマシになったらしい。案の定ぶかぶかだったが、温かさは得られたようだ。


「ありがとう……」


 まだ少し震えながら、優輝はぺこりと頭を下げた。どんな相手にでもちゃんと礼を言えるのは、離婚するまでの間にこいつが受けていた教育が、ちゃんとしていたっていうことなんだろうな。


「なあ、明日、出かけるぞ」

「えっ?」


 この部屋に入ってからというもの、優輝はびっくりしっぱなしだ。


「出かけるって、奏汰くんが?」

「俺と、お前な」

「ええっ⁉」


 今までで一番驚いた顔をした。


「僕と奏汰くんが? 一緒にってこと? 出かけるって、ど、どこに?」

「あー、別にどこでもいいんだけどな。家の中で長時間一緒にいると、お互い何かと気を遣うだろ。だから、ちょっとゆっくり話せるところへ行こうぜ」


 優輝は、口を「あ」の形に開けたまま固まっている。言いながら、俺の中で、俺のすべきことが何なのか、少しずつ固まりかけていた。


 自分のために、こいつのために。

 この先、こんな歪んだ家から抜け出して、まっとうに生きていくために、何から始めるべきなのか。


「お兄ちゃーん、お風呂空いたから入りなさーい」


 階下から声が聞こえて、俺たちは体がビクッと飛び跳ねた。


「じゃ、じゃあ僕、これで……」

「母さんたちには、お前を荷物持ちに連れていくって報告しとくから。いい感じに合わせろよ」


 部屋を出ようとする優輝を呼び止めて、


「いいか。俺たちはこれから、秘密を共有するんだ。絶対に悟られるな、分かったか?」


 言って、拳を腕の高さに持ち上げる。

 一瞬何をされるのかと、優輝がビクッとしたのが分かった。が、何もされないと分かり、不思議そうに俺を見てくる。


「グータッチ。部活でよくやるジェスチャーみたいなもん。拳をぶつけるんだよ」

「……ハイタッチみたいな感じ?」

「あれよりもうちょっと気持ちフランクなやつ。了解、とか、よくやった、とか、そういう感じの」


 優輝はじっと俺の拳を見つめた後、ようやく自分の拳をぶつけてきた。


「へったくそ」


 力加減もタイミングもめちゃくちゃで、思わず吹き出してしまった。

 むうっとむくれた顔で自室代わりの物置に引っ込むのを確認して、俺は自分のスマホを手に取った。


 まずはそう、ここからだ。

 この時間ならまだ、起きているはず。


 数コールの後、聞きなれた声が返ってきた。


「親父? ちょっと話したいことと、相談があるんだけど」


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