鏡の向こうの地球で、僕は運命をやり直す

獅倉フユキ

第1話 12/27 浜野優輝


 コンビニに入る時にはもう、空は重たい雲に覆われていた。

 嫌な予感がしていたんだ。


 傘も持たずにトボトボと暗い帰り道を歩きながら、僕はため息をついた。

 父の再婚相手である和美かずみさんから、コンビニで夜食を買ってこいと財布を投げつけられて、年末が近づいた真冬の夜道をこうして歩いている。


 ふわふわと空から舞い始めた白いものを見て、またため息が出た。

 どうりで寒いわけだ。この寒さでホットスナックが冷めてしまったら、今度は叩かれるだけでは済まないかもしれない。美優みゆにおもちゃを投げつけられてできた側頭部の傷が、まだ治りきっていないというのに。


 父と和美さんの間に生まれた美優は、まだ4歳なのに、まるで自分がお姫様かのように傲慢にふるまって、僕のことは召使い以下の扱いだ。

 癇癪を起して泣きわめきながら、僕に暴力をふるうことなんて日常茶飯事。本当に、あの子は和美さんにそっくりだ。和美さんの僕へのふるまいを、無意識に学習してしまっているんだろう。


 つまり遠くない未来、僕は問答無用で家を追い出されるか、一生奴隷のようにこき使われ続けるかの2択だということ。

 体の芯から冷える思いをして、ぶるりと震えた。


 家の最底辺である僕に温かい上着なんて買ってもらえない。今僕が着ている薄いダウンは、和美さんと元夫の息子である奏汰かなたくんのお下がりで、僕にはだいぶ大きい。


 1つ年上の奏汰くんは、成績も運動もすごく優秀で、顔もイケメン。背が高くて女子たちからもすごくモテるらしい。気も体つきも小さくて、血の繋がらない家の人たちに対して、思っていることの一つもまともに言い返せない、そんな僕とは大違いだ。


 奏汰くんからは、僕のことは見えていないようだ。家の中でも外でも、僕の存在は基本、無視されている。和美さんたち家の人がいるところでは、特に顕著だ。

 僕が着ているこのダウンだって、


「ポケットが破れたっていうから捨てようと思ったけど、お前になら丁度いいんじゃない」


 と和美さんに押し付けられたものだ。


「上着がもらえるだけ、ありがたく思いなさい」


 だそうだが。まだきれいなのに捨てられそうになっていたそれを、指にけがをしながらつくろって、今僕が着ているわけだ。掃除や洗濯は人並みにこなせるけれど、裁縫はあまり得意じゃない。

 捨てたはずのダウンをぶかぶかの状態で着ている僕を見ても、奏汰くんは眉一つ動かさなかった。

 奏汰くんからしたら、再婚相手の連れ子だなんてうざったいだけだろう。仲良くするつもりはないと、そう突き放されている気分だった。


 しんしんと降り続ける雪に身体を固くしながら、僕は夜道を急ぐ。


「帰ったら、まずはリビングの片づけからかな……」


 和美さんはとにかく家事ができない。

 元は父と同じ会社で働いていた人らしいけど、父とダブル不倫して美優を妊娠、その後元夫さんと離婚。父と再婚してからというもの、子育てに専念するという名目で仕事を辞めて専業主婦になったらしい。


 バリキャリだった僕の母は、父の浮気を知った時、姉と僕を連れて離婚するつもりだった。だが、普段から両親ともに家を空けがちで、姉と僕とに家事をさせて自身は出張三昧だった、ということを弁護士に突っ込まれ、そんな母に親権を渡すのは不安しかない、と議論になった。

 そうして落としどころを探した結果、母が姉を、父が僕を、それぞれ引き取るという形で落ち着いた。もっとも、父方の祖母が嫁である母を嫌っていたため、嫌がらせ的に僕を父に引き取らせた、というのが本当のところらしいのだが。

 今から4年前の出来事だ。


 小学生だった僕は、対立する両親にオロオロするばかりで、ただただ姉の後ろに隠れていたのを覚えている。大人の怒鳴り声が響く家の中が怖くて、部屋の隅っこにうずくまっていたこともあった。

 ようやく静かになったと思ったら、父に連れられて、知らないおばさんと年上の男の子と一緒に暮らせと言われた。


 だから僕は、大好きだった姉とももう4年、会えていない。

 先日のクリスマスに、コンビニ留めでこっそり届いた姉からのプレゼント。いつも家の人に見つからないように、1カ月に一度のペースで姉と手紙のやり取りをしていたけれど、プレゼントが届いたのは初めてだった。

 ふかふかの赤いマフラー。これだけは、絶対に家の人たちに奪われたくはない。


 あっさり僕を捨てた母さんも、僕への所業を見て見ぬふりして無視し続ける父さんも、もう家族とは思えない。

 4つ年上の姉だけが、僕の唯一の味方で、唯一の家族だ。


 あったかい姉の笑顔を思い出して、ツンと鼻が痛くなった。目の下まで上げたマフラーの中で息を整えて、雪の夜道を急ぐ。




 神社の近くに通りかかった時だった。

 前方に、チラチラと光るライトの灯りと、しゃがみ込んで怪しげな動きをしている人影が見えた。


 回り道をして帰ろうかと思ったけど、それだとホットスナックが冷たくなってしまう。できるだけ見ないようにしてさっさと通り過ぎよう。


 近づくにつれて、はっきりしてくる。どうやら真っ暗な道をスマホのライトで照らしながら探し物をしているらしい。足元を照らし、道にうずくまりながらブツブツ言っている若い男の人が見えた。


「あかん……どこいってしもたんやァ……」


 関西弁だ。

 僕の周りで関西弁を話す人がいなかったから、新鮮な気持ちで横を通り過ぎる。街灯の明かりでチラッと見ると、赤みのある茶髪をした二十代くらいの若い人だった。


「ふえっくしょォい‼」

「うわッ‼」


 真横に来たあたりで、突然に大きなくしゃみをされて、僕はビクッと飛び上がった。思わず声まで出てしまい、気まずい。

 キョトンとした表情でこちらを見上げ、彼は口を開いた。


「スマンスマン、驚かしてしもたなぁ」


 膝を叩きながら立ち上がる。ひょろりと背の高い人だった。


「ちょっと落としもんしてしもてな、雪も降ってきたし、はよ見つけたいねんけど……。灯りがスマホしかなくてな、腰やってまいそうやわ」


 ワハハと笑って、再びしゃがみ込む。


「気にせんと通ってや。別に割れもんやないし」

「あ、あの」


 思わず口に出ていた。


「僕の家、近くなので、その……灯り、持って戻ってきます。少し待っててください」


 彼が「あ」と口を開きかける前に、僕は足早にその場を離れた。

 あのまま探すのを手伝ってもよかったけれど、それではホットスナックが冷めてしまう。これ以上、生傷を増やしたくはない。


 小走りに家にたどり着くと、リビングのテーブルにコンビニ袋を置いた。


「あの、買ってきたやつ、ここに置いておきますから」


 そう声をかけても、頼んだ本人であるはずの和美さんは僕に視線すらよこさず、ソファの上で美優と遊んでいた。こういう無視も、いつものことだ。

 それを横目に僕は廊下に出て、道具入れの中から大きめの懐中電灯を引っ張り出し、再び靴を履く。


 ちょうどそこへ、2階から奏汰くんが降りてきた。空のマグカップを持っているので、コーヒーのおかわりでも淹れに来たんだろう。靴を履いている僕を見て、怪訝そうな顔をした。


「なに、帰ってきたんじゃねえの」


 久しぶりに、本当に久しぶりに、奏汰くんと目が合った。そして声をかけられた。これまでずっと存在自体を無視されていると思っていたから、僕は思った以上に緊張してしまって、挙動不審になってしまった。


「え、えっと、お、落とし物……したから、も、戻る……」

「は? 落とし物?」

「急がないと、だから……」

「……雪降ってんぞ」


 そんなことは分かっている。僕には、奏汰くんが何を言いたいのか分からなかった。不思議そうな顔をする僕を見て、何だか呆れたような顔で小さく舌打ちをすると、


「さっさと戻れよ」


 とだけ言って、リビングへ入っていった。

 やっぱり奏汰くんのことがよく分からなくて、少し唖然としていたけれど、早くあの人のところへ行ってあげないとと思い直す。


 ドアを開けると、冷たい雪交じりの風が吹きつけた。




 神社の近くに走って戻ると、例の男の人がまだそこにいるんだろう、スマホの光がチラチラ動いているのが見えた。良かった、間に合ったみたいだ。

 懐中電灯のスイッチを入れて、自分の足元から少し先の地面を照らした。こちらに気付いたのか、例の人が声をかけてきた。


「ええ! ホンマに戻って来てくれたん!」


 声が明るかった。戻ってこないと思われていたんだろう。


「すみません、遅くなっちゃって」

「ええねんええねん! いやー助かるわ!」


 懐中電灯の大きな光で、僕たちのいる足元全体が照らされる。


「見つからんかったらえらいことやねん。最悪クビやろなー」

「えっと、何を探しているんですか?」

「鍵や、鍵! ごっつい鍵! デカくて重たいやつやねん。ちょっと錆びとる感じの、黒っぽいやつ」

「ああ、それは見つからないわけですね」


 この暗さの中、黒い鍵なんてなかなか見つかりっこない。おまけに雪が降っていて、地面が濡れてきている。


「これ以上気温が下がったら、路面凍結で鍵も凍っちゃうかも……」

「アカン!」


 絶望的、という声を出して、彼は地面に這いつくばった。


「すまんなぁ、ジブンみたいな若い子、早よぅ家に帰したらんといかんのに。親御さんに申し訳ないわ」

「いえ……それは別に……」


 何となく口ごもって、それ以上続けられなかった。

 言葉を途切れさせた僕に何か思うところがあったのか、彼からの視線をふと感じた。けれど、気付かなかったふりをして懐中電灯の明かりを右へ左へと振る。


「あ……!」


 2メートルほど先の電柱のそばに、何か黒い金属が落ちているのが見えた。

 駆け寄って拾い上げると、どっしりと重い。雪に濡れて、だいぶ冷たくなっている。


「これですか?」


 彼に手渡すと、パアッと破顔して


「それや―――‼」


 大きな声で叫んで飛びついてきた。


「ありがとうありがとう‼ いやー見つかってよかったぁ!」


 受け取ったそれを両手で包むと、頬ずりやキスまでしそうな勢いで、手の中のそれを確かめている。


「それ、どこの鍵なんですか?」


 思わず尋ねると、


「ん? 神社の宝物庫の鍵」

「ええっ⁉」

「いやーほんま、無くしたら一発でクビになるとこやった!」

「み、見つかってよかったです、本当に」


 へら、と口元だけで曖昧に笑って、それじゃあ、と踵を返して帰ろうとした。すると彼は慌てて僕の腕をつかみ、


「あー待って待って! 呼び止めてすまんけど、2分だけ待って!」


 何だろう、と振り返ると、


「これお礼にもらったって」


 そう言って、手に何かを握らされた。見ると、お守りらしきもの。暗くてよく見えないけど、細い紐の付いた小さな袋で、赤地に何か書かれているのが分かる。


「わい、ここの神社のモンやねん」

「え」


 そういえば、ここは神社のすぐ裏手にあたる道だ。


「ホンマは京都におったんやけど、こっちに派遣されて来とってな。伏見稲荷って知っとる? 千本鳥居で有名なとこ。元はあの辺におったんよ」


 彼はペラペラと話しながら、上着のポケットをまさぐる。そして名刺を一枚取り出すと僕に差し出し、


「アカガネ言います」


 顔を上げると、街灯のぼんやりした灯りの中で、ひときわ明るく光る茶色い目が見えた。


「お、やっと目ぇ合うた」


 からかうように言って、彼は笑う。

 赤茶色の髪、明るい茶色の目は少し吊り上がって、ぽかんとしている僕を見下ろしていた。


「見たところジブン、なーんやしんどそうやん。困ったことがあったら、ここに連絡してきぃ」


 言った後で「あっ」と呟き、


「怪しいもんちゃうで! ちゃんとした神社のモンやし、ちょっとまあスピってる風に見えるかもしれんけど、勧誘とか怪しいもんとはちゃうから! 助けてもろた礼に、何かあったら助けるでっていうことやから!」

「あ、ありがとうございます」


 少し笑ってしまって、思わず受け取ったけど。


「でも僕……スマホ持ってなくて」

「え、そうなん」

「……持たせてもらえなくて」

「課金しすぎて取り上げられたとかでもなく?」

「……一度も持ったことないんです。お前には贅沢だからって」

「あー……」


 アカガネさんは、まずいことを聞いたな、といった風に頬を掻いた。


「ご家庭の方針ちゅうやつ……」


 言われて、力なく笑うしかなかった。

 クラスでもスマホを持っていないのは僕くらいのもので、緊急の連絡を回してもらえないことも多い。このご時世本当に困るのだが、先生との三者面談でも和美さんが、


「我が家の方針で、スマホは持たせておりません。何かありましたら私の方へご連絡ください」


 そう言って、自分の番号を担任に渡していた。そう言われてしまえば、学校側も何も言うことはなく、僕の成績が学年でも上位なこともあって、特に口を出すことはないと判断されたようだった。


 家事と勉強くらいしかすることがないから、僕の成績は悪くはない。でも部活もせず、授業が終わったらさっさと帰宅する僕に、友達らしい友達というのも少なかった。

 クラスの中で何人か、仲良く話してくれる人たちはいるけど、付き合いの悪い僕と親友と呼べるまで仲を深めてくれる人はいない。時間があればできるのかもしれないが、僕にはとても無理な話だ。


 早く帰って家事をしなければ、和美さんに怒鳴られて、叩かれて、殴られて、食事を出してもらえなくなる。また真夜中にこっそり起きだして、水道水を飲んで飢えをしのぐことになってしまう。痣を隠しながら着替えたり、傷を指摘されて誤魔化したり、そんなことを繰り返す毎日は、もう二度とごめんだ。


 僕だって、最初からこうだったわけじゃない。

 父さんが和美さんと再婚したすぐくらいの頃は、まだ自分の部屋をもらえていたし、ぎこちないながらも奏汰くんと話もできていた。


 一体いつから、僕は部屋を取り上げられ、一畳分しかない物置で寝起きしないといけなくなったんだろう。薄暗い廊下の灯りを頼りに勉強して、視力が下がってもメガネも与えてもらえない。慣れない家事を押し付けられ、親友を作ることも許されず、ひとりぼっちになってしまったんだろう。


 そこまで考えて、不覚にもじわっと涙が浮かんでしまった。涙なんて、もうとっくに枯れたと思っていたのに。


「なるほど、傷は深そうやな」


 小さく呟かれた言葉が、チクリと胸に刺さった。

 アカガネさんは僕にゆっくり近づくと、ぽんぽんと頭を撫でてきた。びっくりして後ずさると、


「雪、うっすら積もってしもたな。引き留めてすまんかった」


 穏やかで優しい目だった。敵意も、悪意もない目。


「夜道は危ないし、送っていこか」

「い、いえ、ここで大丈夫です。本当にすぐそこなので」


 誰かに会っていた、ましてや暴力を振るわれていることを気付かれたかもしれない、なんていうことが家の人たちにバレたら、それこそ何をされるか分かったものじゃない。


「あの、これ、ありがとうございます」

「おん、気ぃ付けて帰り」


 何かを察してくれたのだろう。

 僕はアカガネさんに渡された名刺とお守りをぎゅっと握りしめると、ぺこりと頭を下げて踵を返した。

 背中に、アカガネさんが声をかけてくる。


「本格的にダメになる前に、公衆電話とかでええから電話してくるんやで! わいやったら、公的機関とかにも繋げられるからな!」


 手の中のお守りが、ほんのり温かい気がした。

 こんな僕に、もらえる助けなんていうのが存在するんだろうか。



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