第11話 赤ちゃん聖女と現代社会入門
「何だったのでしょうか……あんなの初めてのことで、私、未だに腰が抜けて立てません……!」
トイレの前で涙目になって訴える聖女様。
その原因がウォシュレットだったと理解した俺は、とりあえず彼女を抱えてリビングのソファまで運び、改めて文明の利器について簡単な説明をする羽目になった。
トイレでの一騒動が落ち着いた頃には、とっくに学校に間に合う時間は過ぎていた。
「はぁ……。まあ、仕方ないか」
俺はキッチンに立ち、朝食の準備を始める。
メニューは、トーストと目玉焼き。いつもの簡単な朝食だ。
食パンをトースターにセットし、フライパンをIHクッキングヒーターの上に置く。
「悠人様、それは何をなさっているのですか?」
いつの間にか隣に来ていたリリアーナが、興味津々といった様子で俺の手元を覗き込んでいる。
その距離の近さに、少しだけ心臓が跳ねた。
「目玉焼きを作ってるんだ。卵を焼いた料理だよ」
「卵を……。ですが、火がありませんのに、どうやって焼くのですか? もしかして、これが悠人様の魔法……?」
彼女は、火が出ていないのに熱を発するフライパンを不思議そうに見つめている。
その小さな子供のような純粋な問いかけに、俺は思わず吹き出してしまった。
「ははっ、違う違う。これは魔法じゃなくて『電気』っていう力で動いてるんだ」
「でんき……?」
「まあ、俺も専門家じゃないから詳しくは知らないけど、壁にあるコンセントから力を供給して……うーん、そうだな。この世界では、スイッチ1つで誰でも魔法みたいなことができるって考えた方がわかりやすいかもな。さっきのお尻にお湯が飛んできたやつも、その一種だ」
「なんと! この世界の方々は、誰もが魔法のような力を行使できるのですか! なんと素晴らしい世界なのでしょう!」
リリアーナは目をきらきらと輝かせて感激している。
ウォシュレットと魔法を同列に語る聖女様。その感性は、もはや斬新というほかない。
「君も、試しに作ってみるか?」
「はい! ぜひ、やってみたいです!」
食い気味に答えるリリアーナ。そのやる気に満ちた顔を見て、何事も経験だよなと俺は目玉焼きを1つ完成させると、フライパンの前の場所を譲った。
これが、新たな惨劇の始まりになるとも知らずに。
「いいか、まずは卵をフライパンに割り入れるんだ。コン、と角に軽くぶつけてだな……」
「はい! 理解いたしました!」
自信満々に頷いたリリアーナは、冷蔵庫から取り出した卵を受け取ると、フライパンの縁めがけて、思いっきり振り下ろした。
――グシャッ!!!
鈍い音と共に、卵は見るも無惨に砕け散り、黄身と白身がフライパンの外、IHヒーターの上にまで飛び散った。
「あ……」
「……」
ショックを受けた顔で固まるリリアーナ。俺は、飛び散った卵の残骸を呆然と見つめる。
「だ、大丈夫だ! 初めてなんだから仕方ない! とりあえず今回は俺が割るから、塩を振るとこをお願いね!」
俺は必死にフォローを入れ、新しい卵を自分で割り入れてやる。
じゅー、と白身が焼ける良い音がしてきた。
よし、と頷いたリリアーナは、塩の入った容器を手に取ると、目玉焼きに向かって渾身の力で振りかぶった。
――ドバァッ!!!
「あ」
「……」
勢いよく振りすぎたせいで、目玉焼きの上には雪が積もったかのように大量の塩が降りかかっていた。
それはもう、塩の塊だった。
その後、なんとか塩を落としたものの、それでも塩辛い朝食を終えた俺たちを、さらなる悲劇が襲う。
「悠人様、お皿はこちらへお運びすればよろしいのですね!」
「お、おう。気をつ――」
――ガシャーン!!!
俺が言い終わる前に、リリアーナの手から滑り落ちた皿が、床の上で派手な音を立てて砕け散った。
お風呂も、着替えも、身の回りのことは全て従者にやってもらっていたという彼女は、俺の想像を遥かに超える筋金入りのポンコツだったらしい。
これはまずい。
流石に、こんな状態の彼女を一人で家に残して、学校に行くわけにはいかない。
俺はスマートフォンを取り出し、親友の健吾に『悪い、今日は体調が悪いから休むって先生に伝えといてくれ』とメッセージを送った。
すぐに『マジか!? 大丈夫かよ! とりあえずゆっくり安静にしてろよ! どうせ夜遅くまで起きてたんだろー?』という、絵文字たっぷりの返信が来る。
友達の優しさが、やけに心に染みた。
俺が改めてリビングに視線を戻すと、リリアーナは部屋の隅で体育座りをし、膝に顔をうずめていた。
その背中からは、強烈な「落ち込んでます」オーラが放たれている。
「申し訳ございません、悠人様……。従者の方々がいないと私は……どうやら、ダメダメみたいです……。これでは、まるで赤ちゃんではありませんか。赤ちゃん聖女です……」
「し、仕方ないって! 何もかもが初めてなんだから! 異世界に来ていきなり全部できる方がおかしいだろ! 俺だって、君の世界に行ったら、それこそ赤子同然だと思うぞ?」
俺が慌てて励ますと、リリアーナは少しだけ顔を上げた。
その瞳は、罪悪感で潤んでいる。
俺は、そんな彼女の前にしゃがみ込み、ニッと笑ってみせた。
「よし、決めた! 今日は一日、君につきっきりで、この世界の最低限の常識ってやつを教えてやるよ!」
まずは、お金だ。
俺は財布から硬貨と紙幣を取り出し、テーブルの上に並べた。
「なあ、リリアーナ。お金っていう概念は、知ってるか?」
「さ、流石にそれくらいは存じておりますよ? 私の世界でも、通貨は流通しておりますから」
少しだけむっとしたように頬を膨らませるリリアーナ。どうやら、あまりに赤ちゃん扱いされたのが悔しかったらしい。
「そっか。じゃあ話は早い。これが1円玉・5円玉・10円と50円に100円・500円で、ここから先の紙幣が1,000円札に5,000円札。そしてこの福沢諭吉っていうおじさんが、1円の1万枚分の価値がある最強の10,000円札だ」
俺は日本の通貨について、一から説明していく。次に、治安について。
「この世界には、君が言ってた魔物とか、山賊とか盗賊、奴隷なんてものは、少なくともこの日本にはいない。代わりに『警察』っていう組織が悪いやつらを捕まえて、街の平和を守ってるんだ」
「なんと……! では、夜に女性が一人で道を歩いていても、安全なのですか?」
「まあ、絶対とは言えないけどな。君の世界よりは、遥かに安全だと思うぞ」
その事実に、リリアーナは心底驚いたようだった。
その後も、冷蔵庫や洗濯機、部屋の照明のスイッチの入れ方まで、家電の使い方を一通りレクチャーする。
その度にリリアーナは「すごい!」「素晴らしい技術です!」としきりに感動していた。
そんな風に、目を輝かせてはしゃぐリリアーナの姿を見て、俺はふと思った。
彼女が着ている純白のドレス。確かに神々しくて綺麗だが、この現代日本の街中では、浮きまくること間違いなしだ。
コスプレイベントでもない限り、ジロジロ見られて大騒ぎになるだろう。
「……よし」
俺はパン、と手を叩いた。
「リリアーナ、服を買いに行こう」
「服、ですか?」
「ああ。さっき教えたお金を使う練習にもなるし、何より、その格好で外を歩くのは流石に目立ちすぎる」
「お買い物……!」
俺の提案に、リリアーナの瞳が今日一番の輝きを放った。彼女は胸の前でぎゅっと手を握りしめ、期待に満ちた声で叫ぶ。
「自分の意思で、何かを『買う』という行為……! わたくし、人生初体験です……!」
そのあまりの意気込みように、俺は苦笑いを浮かべながらも、少しだけワクワクしている自分に気づくのだった。
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