第10話 聖女様、文明の洗礼を受ける
嵐のように現れ、そして嵐のように去っていった二柱の神。
後に残されたのは、シンと静まり返った俺の家のリビングと、現実に戻された俺とリリアーナ、そしてやけに大きく響く壁の時計の音だけだった。
時計の針は、とうに午前を指している。
考えてみれば、公園でリリアーナを拾ってから、まだ数時間しか経っていない。
それなのに、まるで数日分の出来事が凝縮されたかのような疲労感が、どっと全身にのしかかってきた。
「……はぁ」
俺は、今日何度目かわからないため息をついた。
隣では、リリアーナがまだ女神の残滓が残る空間を見つめている。
さすがは聖女様というべきか、その信仰心に揺るぎはないようだ。
「……とにかく、もう夜も遅い。今日はもう寝よう」
俺がそう切り出すと、リリアーナはハッと我に返り、こくりと頷いた。
去り際に、あのロリババア女神――ガルンヴァルスは言っていた。
『リリたんを見放したら罰が下ると思え』と。
最高神からの、直々の脅迫。
だが、そんなことを言われなくても、俺はもう彼女を放っておく気はなかった。
トラックに轢かれそうになった俺を、身を挺して守ってくれた命の恩人だ。
それに、この世間知らずで誰よりも純粋な少女を、見知らぬ世界に一人で放り出すなんて真似ができるはずもなかった。
「リリアーナ。俺の両親は考古学者で、今は海外に行っててな。正直、いつ帰ってくるかもわからないんだ。だから、君さえよければしばらくはこの家に住むといい」
「え……?」
俺の提案に、リリアーナは驚いたように目を見開く。その瞳が、不安げに揺れた。
「ですが、そのようなご迷惑を……」
「迷惑じゃない。どうせだだっ広い家で一人だったし、話し相手がいる方が俺も助かる。それに……」
俺は少しだけ言葉を区切り、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「君みたいな優しい子を一人にはしておけない」
俺がそう言うと、リリアーナの瞳がみるみるうちに潤んでいく。
彼女は、その大きな瞳から涙がこぼれ落ちないよう、必死に堪えるように唇をきゅっと結んだ。
「こっちだ。客間があるから、そこを君の部屋にするといい」
俺は彼女を連れて、一階の和室へと案内する。掃除はしているが特に誰の部屋というわけでもない。
窓を開けて空気を入れ替え、押し入れから来客用の布団を引っ張り出す。
パンパンと軽く叩いて埃を払い、手際よく床に敷いてみせた。
「よし、こんなもんか。それじゃ、俺は二階の部屋に戻るから、何かあったら呼んでくれ。冷蔵庫の中の物は好きに飲み食いして良いからな。……あ、冷蔵庫って、わかんないよな。また明日教える」
やれやれ、と頭を掻きながら部屋を出ようとした、その時。
「悠人様」
リリアーナの俺を呼ぶ声に振り返ると、彼女は俺のことをじっと見つめていた。
その手は小さく震えている。
「ありがとうございます、悠人様……」
「ん?」
「目が覚めて、ここが見知らぬ世界だと知った時……私は、これからどうなってしまうのか、本当は心細くて不安で仕方がなかったのです」
絞り出すような、か細い声だった。
彼女は聖女として気丈に振る舞ってはいたが、その心の内は、たった一人で見知らぬ世界に放り出された、16歳の少女そのものだったのだ。
「そんな私に、ここまで親身になってくださって……。この感謝の気持ちを、どのように伝えたら良いものか、わかりません……」
「……別に、大したことじゃない。当たり前のことをしてるだけだよ」
彼女のあまりにも真剣な眼差しに俺は照れくさくなって、ついそっぽを向いてしまう。
しかし、リリアーナは静かに首を横に振った。
「いいえ。貴方様にとっては当たり前のことだったとしても、私にとっては、奇跡なのです。もし、あの公園で私を見つけてくださったのが悠人様ではなく、奴隷商人や盗賊、あるいは……魔物だったとしたら。私はきっと、今頃生きてはいなかったでしょう」
奴隷商人、盗賊、魔物。
彼女の世界の物騒な常識が、俺の世界の平和さを際立たせる。
「貴方様と出会えたこの幸運を、女神様に……いえ、この幸運を授けてくださった悠人様に。心から、深く、感謝いたします」
そう言うとリリアーナは俺の前で、まるで王に謁見するかのように恭しく頭を下げた。
その真摯な姿に、俺は何も言えなくなる。
面倒なことに巻き込まれた。そう思っていたのは事実だ。
だが、この子がこんなにも喜んでくれるのなら。
こんなにも心から感謝してくれるのなら。
――この大変な出会いも、悪くないのかもしれない。
俺は、自然とそう思っていた。
「……もういいから、顔を上げてくれ。じゃあ、また明日な。おやすみ」
「……はい。おやすみなさいませ、悠人様」
扉を閉める直前聞こえてきた彼女の声に、俺は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
自室のベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
『おやすみ』
誰かに、そんな当たり前の挨拶をしたのは、一体何年ぶりだろうか。
一人きりの静かな家に、人の温もりが戻ってきた。それは、思った以上に心地良いものだった。
俺は迫りくる睡魔に身を任せ、静かに意識を手放した。
◇
翌朝。
騒がしく鳴り響くスマートフォンのアラームで俺は目を覚ました。時刻は七時。
いろいろあったが学校は無くならない。
ベッドから立ち上がり着替えを済ませ、階段を下りて一階のリビングへと向かう。
階段の中央付近を差し掛かった瞬間だった。
「きゃあああああああああっ!?」
鼓膜を突き破るような、リリアーナの悲鳴が家中に響き渡った。
「なっ!? どうした!?」
俺は心臓が跳ね上がるのを感じながら、声がした方へと駆け寄る。
そこにいたのは、開け放たれたトイレのドアの前で腰を抜かし、尻もちをついたままわなわなと震えているリリアーナの姿だった。
「ど、どうしたんだ!? 何があった!?」
「ゆ、悠人様ぁ……!」
リリアーナは涙目で俺を見上げ、震える指でトイレの便器を指差した。
「さ、昨夜教えていただいた『おといれ』という物を使っていたのですが……! と、突然、温かいお湯が……お股に勢いよく……!」
「お湯?」
「はい! あまりにも突然の攻撃に、私、びっくりして……腰が抜けて、立てません……!」
ああ、なるほど。
ウォシュレットか。
そういえば、俺も小学生の頃、親戚の家で初めて使った時はびっくりして飛び上がったっけな。
向こうの世界にそんなハイテクなもの、あるわけないか。
俺は、文明の洗礼を受けて涙目になっている聖女様を見下ろし、遠い目をした。
この世界の常識を、この子に一から教えるのは、思った以上に骨が折れそうだ。
俺と聖女様との、波乱に満ちた共同生活二日目は、こうして幕を開けたのだった。
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