おなじそら・チガウソラ

福天六(ふくたむ)

おなじそら・チガウソラ


ここに来るのは、もう何回目だろう。


受付を抜け、奥のエレベーターでいつもの階のボタンを押す──

その一連の動作にも、すっかり慣れてしまった。

階に着くと、ナースステーションの看護士たちが

こちらに気づいて軽く会釈をする。

その様子を見るのも、もう日常になりつつある光景だ。

カウンターに向かうと、担当の看護士が顔を上げて迎えてくれた。


「……今日の様子は?」

「ええ、変わりないですよ」


安心と、わずかな落胆が胸の中でゆっくり混ざり合う。

変わらないでいてほしい気持ちと、

ほんの少しでも変化を期待してしまう気持ちが、いつも同じように揺れる。


「でも今日は、伊織さんが来るのを心待ちにしてましたから。

 きっと機嫌がいいと思いますよ」


その言葉にはっとして、思わず頷いた。

まだ自分を待っていてくれる──

そう思えるだけで、そこに微かな希望が灯る。

看護士に促されて面会エリアの入口まで歩くと、

「何かあったらコールで呼んでくださいね」と

カードキーを手渡される。

その表情には、こちらへの気遣いがいつもにじんでいる。

だが、この空気にももう慣れた。


待ちわびているあの顔を思い浮かべて、カードを受け取る。

白く静かな廊下は、面会時間が始まったばかりということもあり、人気がない。

もともと人の少ない病棟だが、この時間は特に自分しかいないことが多い。

響く靴音が、やけに大きく感じられる。

靴音が止まったのは、一番奥の突き当たり。


名札で部屋を確認し、カードキーで鍵を解除する。

ノックを数回。

ゆっくりと、やや重いドアを開けた。

高い位置の窓から差し込む光が静かに揺れる明るい部屋。

けれど、いつもいるはずの姿が見当たらない。

ベッドにもいない。

あの窓は背伸びしても届くはずがない。

まさか──

そう胸に影が落ちかけた瞬間。


「いーおりっ♪」


後ろから勢いよく抱きつく声がして、振り返る。

そこには、子供のような無邪気な笑顔があった。

これが彼──小山王子のいつもの歓迎だ。

この部屋の主であり、この空間では自分が“側近”となる。


「おれ、まってたんだよ?いおりがいつ来るかなぁって」


見上げる瞳の嬉しそうな表情に、そっと頭を撫でてやると、

さらに笑顔が咲いた。


「王子、今日は何をして遊びましょうか?」


目線を合わせて尋ねると、

待ってましたと言わんばかりに奥から絵本を一冊抱えて戻ってくる。


「このえほん……よんでっ!」


差し出されたのは、王子が大好きな本。

雨の中の小熊の物語──童謡にもなっている有名な一冊だ。

ここに来るたびに、必ずこれを読んでほしいとせがまれる。

そのまま手を引かれ、おもちゃが散らばったスペースに座る。

本を読むときは、王子にとってここが“特等席”らしい。


「じゃあ、読みますね……」


タイトルを読むと、王子は嬉しそうにぱちぱちと拍手した。

文字の少ない絵本なので、ゆっくりと言葉を届けるようにページをめくる。


何度この本を読んだだろう──。


そう思いながら目を走らせていると、ある日の記憶が自然と浮かび上がってきた。

あの日は、この絵本のように雨が一日中降り続いていた。

いつもなら早く帰るはずの小山は、なぜかその日に限って遅く、

連絡しようにも、唯一の通信手段は突然途絶えたままだった。

ようやく深夜に帰ってきたその姿は、

ずぶ濡れのまま、虚ろな瞳で、

まるで光が消えてしまったように冷たかった。


どうして──


その身体をもっと早く抱きしめてあげられなかったのだろう。


「い……おり?」


気づけば、目の前の小山を強く抱きしめていた。

王子はきょとんとしたまま、不思議そうにこちらを見上げている。

胸の奥が苦しくて、言葉が一つしか出てこない。


「ごめん……ごめんな……」

「いおり?」

「小山……ごめんな」

「うん……」

「本当に……ごめんな」

「……うん。いおりさん……」


紛れたその声色は、懐かしいあの日のままで。

視界がじわりと滲んだ。


「……ごめん。ごめんな……」

「伊織さ……」

「おや──」

「いたっ! いたいよ! いおりっ!」


力を入れすぎていたことに気づき、慌てて腕をほどいた。

そこにいたのは、また“王子”に戻った小山。

少し不満げな顔でこちらを見上げる。


「いおり、どうしたの?どこか……いたいの?」


差し出された小さな手が頬に触れ、涙の跡をそっとなぞる。

その指先を軽く握って笑う。


「いいえ。すみません……ちょっと目に何か入ったみたいで。

 大丈夫ですから」


そうごまかすと、王子はまだ不思議そうにこちらを見ていたが、

やがて絵本へ視線を戻した。


「あめ……いつやむのかなぁ?」


絵の中の雨粒を指先でなぞる。

この絵本は、いつも雨のまま終わる。

晴れ間は描かれない物語だ。


「いつか……止みますよ。きっとね」


言いながら、自分に言い聞かせているような感覚が胸に湧く。

自分の世界には、今や雲一つない青空が広がっているはずなのに。

こんなにも近くにいて、手を伸ばせば触れられる距離なのに……

彼は自分とは違う“空”の下にいる。


雨雲の向こうにいる彼まで、

もし雲をかき分けて手を伸ばすことができたら──


その手に届く日が来るのだろうか。

どうしたらいい? 王子様。

どうしたら、その手を引いて同じ空の下へ戻れる?


「ねえ、もういっかいよんで!さいしょからね!」


自分とは違う空の下で笑う声に頷き、

また最初のページを開く。


ぺらり──。


紙がめくれる音だけが、晴れない空のように静かに響いた。




おわり。

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おなじそら・チガウソラ 福天六(ふくたむ) @fukutamu

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