第6話:喫茶店の澪と、雨が境界を溶かす

 土曜の午後。俺は薄いピンクのオックスフォードシャツにリーバイス501を纏い、鏡の前で最後の確認をする。


 鏡の前で、呟く。「これが、頂きへの一歩か」。 


 胸の奥で不安と期待が雨雲のように渦巻き、心臓の鼓動が創作のリズムを刻んでいた。街へ向かう足取りは、まるで物語の主人公のように──軽やかで、それでいて運命的な重みを帯びていた。

 

 約束の店に着いた。


 店内は、ジャズの残響とコーヒーの香りで満ちている。窓際の席に、彼女がいた。


 黒髪ロング、眠たげな目。俺の作品の澪──いや、本物の澪。大学生だと自己紹介する彼女の名は、偶然にも「澪」。


 「作者さん。来てくれて、ありがとう。あなたの小説、読んで……私の日常が、息苦しくなくなったんです。感情を抑えて生きてきたけど、あの"ため息"のシーンで、何かが解けたみたい」


 話が、弾む。彼女のバックボーン:幼少期の喪失、家族の影。俺の設定と、奇妙に重なる。まるで、俺の創作が現実を予言したように。


 「続きの取材、って……どんな風に?」俺の声が、かすれる。


 澪の頰が、微かに赤らむ。喫茶店の薄暗い灯りが、彼女の首筋を照らす。「例えば、このシーン。雨の帰り道の続き。相合傘の下で、手が触れて……息が混じって」


 外は、幸か不幸か、小雨が降り始めていた。俺たちは店を出て、傘を差す。相合傘。彼女の肩が、俺の腕に寄り添う。濡れた空気が、肌を這う。


 「見て。いいよ、こんな私を」


 澪の囁き。俺の小説の台詞が、現実の吐息に乗って、耳に届く。彼女の手が、俺の袖を掴む。温かさが、布地越しに伝わる──雨が輪郭を浮かび上がらせる。


 境界が、溶け始める。創作と生殖の狭間。俺の指が、無意識に彼女の腰に触れる。柔らかい曲線。心臓の鼓動が、物語のプロットのように加速する。


 その時──。


 「作者さん! 澪ちゃんの小説、超好き! サインください!」


 後ろから、明るい声。振り返ると、二人の女子大生がスマホを構え、興奮気味に近づく。澪の友人たちだ。


 「澪が『作者さんと会う』って言うから、ついてきちゃった! まだアクセス千ちょっとだけど、絶対バズるって思ってたんです!」


 彼女が、投稿サイトのファンコミュニティで話を共有したら、好奇心でついてきたらしい。


 「え、作者さんリアルでかっこいい! 澪、独占すんなよ! 続きのエロス──じゃなくて、恋愛シーン、早く書いて!」


 勘違いの渦。俺たちは、ただの取材じゃなく、創作の「共犯者」デートと見なされた。雨の街角が、一瞬でファンイベントに変わる。


 友達二人が、スマホで写真を撮りまくる。「これ、SNSに上げていい?」「作者さんと澪のツーショット、バズるよ!」


 澪が、困ったように笑う。「ちょっと、やめてよ。作者さん、困ってるじゃん」


 でも、彼女の目は笑っている。この状況を楽しんでいる。


 別れ際、彼女が振り返る。


 「作者さん。今日、ありがとう。続きの取材、今度こそ二人きりで。もっと深く、残響を共有しようよ」


 彼女のウィンク。吐息が、雨粒に混じって、甘く残る。


 俺の頰が、熱い。


 雨の中、一人残された俺は、彼女の背中を見つめる。


 黒髪が、雨に濡れて揺れる。眠たげな目が、最後にもう一度、こちらを見た。


 めんどくさそうに、でも──可愛く。




 家に帰り、デスクに向かう。新しい作品を書き始める。


 タイトル:『めんどくさくて、可愛い君の境界』。

 タグ:#微熱恋愛 #表現の渇き #雨の残響。




『めんどくさくて、可愛い君の境界』冒頭


 雨が、境界を溶かす。

 相合傘の下、彼女の手が俺の手を握る。温かい。柔らかい。生きている。


 「ドキドキしてますか? 私、してます」


 彼女が、めんどくさそうに──でも、可愛く微笑む。

 距離が、消える。吐息が混じる。


 これは創作か? それとも現実か?


 もう、どちらでもいい。


 境界が溶けた瞬間、彼女の唇が──


 温かい。柔らかい。甘い。


 雨の匂いと、彼女の吐息が混じる。




 投稿後、コメントの嵐。「リアル澪降臨?」「この勘違いシーン、哲学的エロス!」「キスシーン、ドキドキした!」「これ、実話ベース?」「続き早く!」「作者さん、リア充爆発しろ(褒めてる)」


 妹のDMが、届く。「お兄、顔写真送ってこい。赤らんでるだろ? ようやく、書いたな──創作のエロスを。クックック」


 創作の頂きとは、つまり──渇きを共有する、孤独の連鎖なのかもしれない。境界を溶かし、吐息を継ぐ、永遠の衝動。


 雨の音が窓を叩く。澪の吐息のように。


(続く)

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