第十九章:ばぶ語とクロイツリンゲンの葛藤
春の陽光が公園の芝生を照らし、柔らかな風が木々を揺らしていた。
シグちゃんは、ユナちゃんのベビーカーの前にしゃがみこんでいた。
お兄さんと母親は、少し離れたベンチに腰を下ろしている。
「今日も調子はどう? ユナちゃん」
「ばぶ」
「そう……心の奥に浮かぶ感情が、“言葉”にならないもどかしさ。
それがばぶ、なんだね?」
「おぎゃ」
「なるほど。“おぎゃ”は、外界への一次的な欲求の表現。
つまり生の衝動と死の衝動が未分化な状態にある……」
シグちゃんはまっすぐにユナちゃんを見つめていた。
するとユナちゃんは、手を胸に当てるようにして、ふにゃっと笑った。
「ばぶばぶ、ばばばぶ。ばぶー、ばう(間)ばぶ」
その声音には、確かに“理”があった。
「……無意識は、世界と繋がる源泉……?」
「ばぶー」
「……集合的無意識……?」
彼女の脳裏に、あの名前がよぎる。
カール・グスタフ・ユング。
「違う。わたしが思う無意識は、“抑圧された欲望”の投影であって、
“神的な統一場”では……」
「ばぶ?」
「いえ、その……つまり、あなたの考えでは、
無意識は“スピリチュアルな意識の海”ということ……なんだね?」
「ばぶっ」
納得の笑顔。
シグちゃんは、内心で少しだけ叫んでいた。
(ちがう、違うよ、ユナちゃん。それは、まさにユングの考え方……!)
思い出す。
クロイツリンゲンのこと。
1912年の春。
ウィーンから遠く離れたスイスの片田舎。
病床に伏した友人ビンスワンガーを訪れたとき、
ユングの屋敷には寄らなかった。いや、寄れなかった。
すれ違いと沈黙の象徴。
フロイトとユング交わらなかった“クロイツリンゲンの態度”。
(わたしは……あのとき、ユングの家の前で、足が動かなかった……)
そして今。
まるで時を越えたように、目の前のユナちゃんが、
ユングと同じようなことを言っている。
「ばぶ、ばぶばぶー。ばぶとは、宇宙の記憶……」
「う、うん。そういう考えも……あるよね」
口角を引きつらせながら、シグちゃんは頷いた。
「本能の抑圧による転位ではなく、
象徴的な夢と直観を通じた集合的象徴の発露……も……まぁ、あり、だよね」
「ばぶ!」
満面の笑み。肯定のばぶ。
(くうううう、納得してない、わたし全然納得してない……!)
だが、それでも。
相手の“言葉にならない世界”を否定しなかったのは、
今の彼女が“フロイト”であると同時に“シグちゃん”でもあるからだ。
“わたし”だけが正しい、とはもう言えない。
「また、話そうね。今度は“転移”と“逆転移”についても語り合いたいな」
「ばぶ♪」
その返事に、心のどこかでほんの少し、癒されるような気がした。
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少し離れたベンチでは、お兄さんが苦笑いしながらつぶやいていた。
「……あれ、完全にわけわかんねえけど、
本人たちはめっちゃ楽しそうなんだよな……」
「うちの子、まだ“おぎゃ”と“ばぶ”しか言えないんですけどね……?」
ふたりは、そんな謎の議論を繰り広げる少女たちを、
春の日差しのなかで、穏やかに見守っていた。
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