第二十章:バブ語とスピリチュアルの交差点
「ばぶっ!」
「“ばぶ”という語は、いろんな意味を持つけれど、
今のイントネーションだと“なるほど、それもまた真理である”というニュアンスだよね?」
シグちゃんはしゃがみこんで、ユナちゃんと目線を合わせる。
小さな手が空を切るように動き、次の「ばぶ」が発せられる。
「ばぶ、ばぶおぎゃ~」
「うんうん、“意識とは水面で、無意識はその下にある深い湖”……わたしもそう思ってる。
でも“その湖の底にいるのが母なる宇宙の光”っていうのは、少し違うかも……」
お兄さんとユナちゃんの母親は、またこの謎の“乳児間哲学会議”が始まったとでも言うように、苦笑しながら見守っていた。
ユナちゃんは「ばぶばぶっ」と続ける。
そこには明確なリズムと、意図された強調があった。
「……えっ、“無意識は集合魂の記憶であり、銀河の中心とつながっている”?
それってつまり、“わたしたちは星の記憶を夢に見る”ってこと?」
シグちゃんの眉が、かすかに寄った。
それは“ユング的”だった。
“無意識を本能の貯蔵庫”ではなく、“創造性と神話の根源”として捉える、あの男の考え方。
彼女の脳裏に、一瞬だけユングの顔が浮かぶ。
理性的で、鋭利で、けれどどこかふわりと空を見ているようなまなざし。
「きみたちは、なぜわたしの月桂冠をむしり取ろうとしないのか?」
「神像に打ち砕かれないよう、用心せよ」
思い出す。
リビドーをめぐる解釈の違い。
創造か、抑圧か。
スイスの論文に自分の名が出なくなったことを責めたあの夜。
クロイツリンゲンの誤解、そして、怒りのあまりに気絶してしまったこと。
また、同じことを繰り返すの?
目の前のユナちゃんは、悪気など一つもない。
むしろ目を輝かせながら、無意識を“光”や“天啓”のように語っている。
彼女の中にある“可能性の領域”を否定するのは、かつての自分がされたことと同じ。
シグちゃんは、ぐっと口をつぐみ、ゆっくりと頷いた。
「……そういう考えも、あるよね」
ユナちゃんは「ばぶ♪」と嬉しそうに笑った。
その笑顔はまるで、「許された」とでも言うように、安心しきっていた。
「……あんまり自分と違う解釈を聞くと、反論したくなるんだ。
でもそれって、“真実”が一つしかないって思ってた頃のわたしの癖なのかも」
シグちゃんは立ち上がり、空を仰いだ。
雲が、ゆっくりと流れている。
お兄さんが、少し離れた場所から近づいてきた。
「どう? 今日も哲学してた?」
「うん。でも、今日は怒らなかったよ。ちゃんと納得した」
「えらいえらい。やっぱ博士は、心が広いね」
「……まだ広がろうとしてる途中、かな。
あの頃の“わたし”なら、絶対に引かなかったと思う」
その横顔に、お兄さんはふと感心したように呟いた。
「……そっか。
じゃあ、いま“ここにいるお前”は、あの頃とは違うってことか」
「違うけど、つながってる。
わたしは“ジークムント・フロイト”のままで、
でも、“シグちゃん”として、生き直してるのかもしれない」
「うん。……それ、いいじゃん。かっこいいよ」
「ありがとう、お兄さん。わたし、ちょっとだけ……自分のことが、好きになれた気がする」
小さな手が、そっとお兄さんの袖をつかんだ。
過去に打ち砕かれた神像を、もう一度、
人間として組み立て直すように。
新しい“わたし”が、少しずつ、生まれ始めていた。
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