第十八章:煙と記憶と、わたしの名について


朝の空気は澄んでいて、肌寒い風がカーテンの隙間から部屋を撫でていた。


目を覚ましたシグちゃんは、ぼんやりと天井を見つめた。

身体の芯がだるく、呼吸は浅い。だが、意識ははっきりしている。


リビングには誰もいない。


キッチンのテーブルには、折りたたまれた毛布と、湯気の消えたカップ。

彼女は静かに窓辺に近づいた。


ベランダの外、柵に寄りかかって立つ男の背中。

手には白い煙をくゆらせたタバコ。

深く吸って、細く吐いて、ため息と一緒に宙へ溶かしている。


「……一本、ちょうだい」


突然の声に、お兄さんは少し肩を震わせて振り返った。


「お、おう。……って、いやいやいや、だめだろ! お前まだ子どもだぞ!?」


「子どもじゃないよ」


「いや、見た目が完全にアウトだって」


「……じゃあ、ここにいてもいい?」


「……ああ、それなら」


彼は火のついたタバコを灰皿に押し付け、腰を下ろした。

シグちゃんも隣に並ぶようにベランダに座る。

外の空気は冷たかったが、不思議と落ち着いた。


「夢を見たの」


「……うん」


「すごく苦しくて、痛くて、怖くて……

でも、すごく懐かしくて、わたしにしか分からない感覚だった」


お兄さんは黙って聞いていた。


「ユングって人と、仲良くなって、すごく語り合って……でも決別して。

ウィーンの街を歩いてると、誰にも理解されなくて、

ナチスが来て、大切なものを全部失って……」


シグちゃんは両手を胸に当てた。

その手が、うっすらと震えている。


「最後には、病気で声も出せなくなって……

死ぬ時、自分で“終わらせたい”って願ってたの」


「…………」


「夢、じゃない気がした。……記憶、だったと思う。

ほんとは忘れたいのかもしれないのに、

勝手に溢れてきて……わたしの中に、たしかにある」


風が、そっと二人の髪を揺らす。


「わたし、もしかしたら……

ジークムント・フロイトの、生まれ変わりなのかもしれない」


お兄さんは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに目を細めて笑った。


「……そうか。じゃあ、フロイト博士。

今日も日課の散歩、行くか?」


その言葉に、シグちゃんも微笑んだ。


「うん。もちろん。足を速くして、思考を整理したいから」


「俺はもう、ついていくのが精一杯だよ……」


~~~


風が吹き抜ける河川敷の遊歩道。

シグちゃんはすでに、10メートルほど前を早足で歩いていた。


「頭を使う時は、足を使えって、誰かが言ってたの。

わたし、たぶん、それをずっと守ってきたんだと思う」


「前世の話だよな、それ完全に」


「そうかも。けどね、足を動かしてると、心がほどけてくるんだよ。

夢も、痛みも、記憶もぜんぶ、少しずつ、整理できる」


「……やっぱすごいな、シグちゃん」


そんな会話を交わしていると、前方に見覚えのある親子がいた。


「あっ……!」


小さなベビーカーに乗った女の子と、その母親。

ユナちゃんだった。


「シグちゃ〜ん、また会えたね〜!」


「こんにちは。また会えましたね」


ユナちゃんは小さな手をパタパタと振って、

「ばぶ」「おぎゃ」とお決まりの台詞をくれる。


母親が笑いながらシグちゃんに言う。


「最近、よく“シグちゃんとおしゃべりしたい”って言ってるんですよ。

言葉はまだ出ないけど、不思議と……なんだか通じ合ってるみたいで」


「ふふ、それはわたしも同じです。

無意識の共鳴、って言うんです。たぶん」


「……?」


相変わらず、言葉の意味は難しいけれど、

笑顔はしっかり通じているようだった。


そして、ユナちゃんが静かに言った。


「……こんど、あそびにきて」


シグちゃんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。


「ええ。今度は……“わたしの家”にも、遊びにきてね」


「いや、だから俺ん家だって……」


お兄さんのツッコミは、春の風に消えていった。

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