第十章:名前の奥にいる誰か

日曜の午後。

洗濯機が静かに回る音と、窓の外の風鈴の音だけが、部屋の中に残っていた。


俺は久しぶりに、積んであった本の山の一番上に手を伸ばした。

買ったはいいが一度も開いてなかった自己啓発本。

タイトルはたしか『人生を動かす99の思考術』とか、そんな感じだったはず。


半ば眠気覚ましのつもりでページをめくり、

コーヒーをすすりながら、なんとなく目を走らせていく。


「“人間の行動の8割は無意識によって支配されている”……へぇ」


そんな文言の下に、小さく注釈があった。


※ジークムント・フロイトの精神分析理論を参照


その名前を見た瞬間、指が止まった。


「ジークムント・……フロイト?」


特に馴染みのある名前ではない。

読んだこともなければ、誰かと会話に出たこともない。

けれど


なぜか、胸の奥で小さな鈴が鳴るような感覚がした。


引っかかる。

音もなく、冷たく、どこか妙に知っているようなそんな響き。


ページをめくる手を止めたまま、

俺はじっとその行を見つめた。


「……どっかで聞いたような、気のせいか……?」


記憶の糸をたぐってみる。

でも、そんな名前の同級生がいたわけでも、TVで聞いたわけでもない。


なのに、なぜか。


フロイト。

ジークムント・フロイト。


カタカナで書いてあるのに、“外国語”としての距離がない。

それどころか、あの少女シグちゃんの寝言の中で、

“ユング”“イド”“象徴”“転移”なんて単語と並んで、どこかに“在った気がする”。


ぞわ、と背筋が粟立つ。


まさか。


俺はスマホを手に取り、試しに名前を検索してみた。

「フロイト 誰」


数秒後、表示されたページには、見出しが踊っていた。


精神分析の父、ジークムント・フロイト

無意識と夢、性の象徴解釈で知られる20世紀最大の思想家


……無意識。

夢。

性。

象徴。


全部、シグちゃんの口から出た言葉だ。


彼女が意味もなく連呼するような単語じゃない。

しかも“ウナギ”を見て言ったあの話。

“骨とぬめりと内臓の配置”を見て、

“切っていた気がする”と語ったあの記憶。


そして彼女が、5時に起きて身だしなみを整え、散歩をしながら無意識に考えごとをして、

俺をベッドに寝かせて「話して」と言った、“あの行為”。


「……いや、まさかな……」


でも、もし本当に“まさか”だったら?


本に目を戻す。

そこには小さなモノクロの肖像が載っていた。


口ひげの男。深い目。

どこか“怖い”けど、“温度を持ってる”顔。


俺はすぐに目をそらした。


なんだよこれ。

俺は何を考えてる。


シグちゃんが、ジークムント・フロイトの

……いや、そんなの、バカバカしい。


でも。


ページの文字は読めないのに、

“名前”だけが妙に“音”として残っている。


フロイト。


彼女の中に、それが“あるような気がする”。


あの子はいったい、何者なんだ


洗濯機が止まる“ピーッ”という電子音が、やけに耳に残った。


俺はスマホを伏せ、本を閉じた。


そして、なぜかリビングの奥。

今この瞬間も静かに“何かを考えている”であろう彼女の姿を、想像していた。



~~~~~~



第十一章遠ざかるもの、近づくもの

日曜の午前、空はやや曇り。

だが風は穏やかで、歩くにはちょうどいい気候だった。


シグちゃんはいつものように5時に起き、

身だしなみを整え、ワンピースの裾を指で真っ直ぐに整える。


「今日の雲は……西に動いてる。天気は安定」


「お天気キャスターかお前は」


「違う。“観察者”だよ」


俺たちは連れ立って、駅の裏手にある遊歩道を歩いていた。

日曜のせいか、町の空気はいつもよりのんびりしている。


しかしそのとき


「カンカンカンカンッ」


踏切の警報音が鳴り響いた。


「……あ、通るな。電車」


俺が何気なく言ったその瞬間。


シグちゃんがぴたりと足を止めた。


「……っ」


その顔から、さっと血の気が引くのが分かった。


目が見開かれ、眉が微かに震えている。

喉に引っかかった声のような呼吸が、肩を上下させていた。


「……シグちゃん?」


「……ご、ごめん……なんか……」


言いかけた言葉が、喉の奥で消える。


ちょうどその時、電車が視界の右から突き抜ける。

銀の車体が地響きと共に通過していくその音に、

彼女は一歩、後ろに下がった。


「……怖い?」


俺がそっと訊ねると、シグちゃんは口を結んだまま、こくりと頷いた。


「理由は……わからない。でも、すごく怖かった。

あの音、速さ、鉄と鉄がぶつかるような感じ……

心が追いつかなくなる……そんな感覚」


「……でもさ、前に“旅行が好きだった気がする”って言ってたよな?」


「うん。……だから、変なの。矛盾してる。

行きたい気持ちはあるのに、乗り物が怖い」


「そっか……」


俺は腕時計を見た。

時間はまだ9時半。

日曜で特に予定もない。


ふと、頭に浮かぶ提案。


「じゃあさ。試してみるか? 電車」


シグちゃんが、少しだけこちらを見た。


「え?」


「ここから一駅。6分くらいで行ける。でっかい公園があるんだよ。

芝生も広いし、噴水もある。ベンチに座ってるだけでも気持ちいい」


「……電車に、乗るの?」


「ああ。無理そうならやめる。でもさ、“怖い”って感情に引っ張られる前に、

“別の記憶”が上書きできたら……少し楽になるかもしれないだろ?」


シグちゃんは、ゆっくりと目を伏せた。


しばらく考え込んでいるようだったが


やがて、おそるおそる口を開いた。


「……試してみたい。ほんとは……移動って、嫌いじゃないはずだから」


「よし。じゃあ、乗ってみよう」


俺たちは踏切を越え、小さな駅へ向かった。


歩く途中、シグちゃんは何度も空を見上げていた。

まるで“地に足をつけていること”を確認するように、

あるいは“遠くへ行く自分”を無意識に励ますように。


「お兄さん」


「ん?」


「もし……途中で、わたしが変な風になったら。

そのときは、手、握ってて」


「……ああ。絶対、離さない」


シグちゃんは、ようやく笑った。

その笑顔は、まだ揺れていたけれど

踏切の前で見せた“怯え”とは、まったく違っていた。

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