第十一章:おぎゃとエスの対話
電車は、わずか6分で目的の駅に着いた。
初めての電車に乗ったシグちゃんは、座席にぴしっと正座したまま、
窓の外を凝視していた。
車輪の音、車内の揺れ、人の視線
すべてを“観察対象”として処理しているような、その集中ぶりは、どこか滑稽でもあり、愛らしくもあった。
「……意外と、乗ってしまえば怖くないね」
駅の改札を抜けたあと、シグちゃんはそう言って、靴のつま先を整え直した。
「怖さってたぶん、“分からないもの”の形だと思う。
でも、知ってしまえば……それはただの乗り物だった」
「……そりゃあ、そうだけど……お前の分析、いちいち哲学的だよな」
「ごめん。でも、言語化すると安心するから」
そう言って微笑むその顔には、もう踏切前で見せた怯えはなかった。
~~~
公園は、想像よりずっと広くて明るかった。
芝生の匂いと水の音。すべり台とベンチの音。
日曜の昼下がりらしい、ゆるやかな空気が流れていた。
俺はコンビニで買ったアイスコーヒーをすすりながら、
シグちゃんは木陰のベンチにちょこんと座って、
行き交う人々を目で追っていた。
そのときふと。
向かいから、ベビーカーを押す若い母親が通りかかった。
乗っていたのは、まだ言葉もろくに話せなさそうな小さな女の子。
ふわふわの髪にピンクの帽子。手には布のおもちゃ。
シグちゃんとその子の視線が、ぴたりと合った。
「……」
赤ん坊は、にこ、と笑った。
そして、口を開いた。
「ばぶ」
「……!」
その一音に、なぜかシグちゃんが目を見開いた。
そして立ち上がり、ベビーカーの前にすっと歩み寄る。
「こんにちは」
「……あ、どうも」
若い母親が少し驚いた様子で頭を下げる。
「この子、ユナちゃんって言うんです。まだ“一歳とちょっと”なんですけど……すっごく人懐っこくて」
「……ユナ、ちゃん……」
その名前を口にしたとき、シグちゃんはまるでどこか遠い記憶を思い出すように、
ほんの一瞬、目を細めた。
「なつかしい……気がする」
「え? 会ったこと、ありますか?」
「……たぶん、ないです。でも……“知ってた気がする”。名前と、空気と、匂い」
すると、ユナちゃんがもう一度、口を開いた。
「おぎゃっ」
「“対象関係理論としての出発点”……ね。あなたは鋭い」
「ばぶぶぶ……(※音韻パターン強化中)」
「そう。言語獲得前の精神構造が、原型的な“イド”の形に近いのは当然よ。
ただし“超自我”が形成される過程において、母性の不安定さが」
「ばっばぶ……!」
「無意識の深層で、すべての人間が繋がっていることを。この星は、魂の普遍性を………」
「ばぶー! あは、は!」
俺は、となりの母親と目を合わせた。
(え、なに、どういうこと?)
(わたしも何言ってるか全然……)
二人は、ただ黙って様子を見守るしかなかった。
目の前では、言葉を話せるはずのない赤ちゃんと、
小学生くらいの少女が、まるで古典的な講義でもしているかのような空気で“対話”している。
シグちゃんはユナちゃんの小さな手に自分の手を重ね、まるで対等な同志に挨拶するように微笑んだ。
「ふぁ! しー、ぐー!」
ユナちゃんはシグちゃんの名前を真似ようとして、舌足らずな声で応える。
「しーぐ、ばぶ! ふふ、ふぁ!」
「ユナちゃんは賢いね」
言葉ではない。
音でもない。
でも、確かに“通じ合っている”。
ふたりの間にあるのは、言葉よりもっと深い
“感覚”と“記憶”が重なり合う次元のやりとりだった。
やがて、ユナちゃんが指を口に入れて、にこにこと笑い出した。
シグちゃんはそっとその小さな手を握り、「ありがとう、またね」と微笑んだ。
「……ユナちゃん、なにか伝えられたみたいですか?」
母親が、恐る恐る尋ねる。
「うん。わたしも、勉強になりました。今度はうちで、紅茶でも飲みながらお話しましょ?」
「えっ、あ……えっと……はい、ぜひ……」
母親が戸惑いながらも笑って手を振るのを見届けて、
俺はようやく言葉を絞り出した。
「なあ、今の……なんだったんだ?」
「精神分析の対話。原初的自己と記号の交換、みたいな」
「いや俺には“おぎゃばぶ論争”にしか見えなかったんだけど……」
「そういう表現でもいいよ。意味は、だいたい合ってる」
「……あと“うちで紅茶”って言ったけど、それ俺ん家な?」
「ん、知ってる。だから“うち”って言った」
さらりとしたその言葉に、俺はぐうの音も出なかった。
ベビーカーの揺れる音が遠ざかっていく。
その背中を見つめながら、俺は思った。
たぶんこの子は、今日も“夢”の続きを歩いている。
そして、その夢の中に、きっと“俺もいる”。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます