第七章:無意識ゆえの違和感

坂道を下って、駅前のロータリーを抜けたあたりで、

ふいに道端で伏せている大きな犬が目に入った。


柴犬よりも大きく、どっしりとした毛並み。

黒と赤茶の混ざった顔立ちに、鋭い目つき多分、シェパードか何かだ。


通りすがりの人たちはみんな、少し距離をとって歩いていく。

けれど、シグちゃんは違った。


「……あれ」


一歩、また一歩と、まっすぐ犬に近づいていく。

まるで、何か懐かしいものを見つけたかのような視線で。


「お、おいシグちゃん! あんま近づくなよ! 噛まれたら」


「だいじょうぶ。あの目は……噛まない目」


「噛む目とかあんのか……?」


俺が追いつくより先に、シグちゃんはしゃがみこんで、そっと手を差し出していた。

犬はしばらくのあいだ動かなかったが、やがてゆっくりと鼻を近づけ、彼女の手を一度だけ舐めた。


その瞬間、シグちゃんの顔に、ほんのりと笑みが浮かんだ。


「……やっぱり、好きだな。こういう子」


「犬……好きなのか?」


「たぶん。……大きいの、特に」


その口調には、妙な確信があった。

言葉で説明する前に“知っている”ような、そんな感じ。


まるで過去に、何度もこんなやり取りをしてきたみたいに。


「なんで好きなのかは、まだ分からないけど……胸の奥のほうで、あたたかくなるの。なんでだろうね」


彼女は立ち上がり、犬に軽く会釈してから、また歩き出した。


~~~


帰り道、商店街の角で信号に引っかかった。


近くに小さな子どもたちの集団がいた。

保育園か、もしくは親子連れのグループか。

その中の何人かが、赤信号の前で待ち構え、

青になるのを今か今かと待っていた。


やがて、信号が変わる。


その瞬間、彼らは元気よく声をあげた。


「みぎてあーげてー!」


小さな右手が、一斉に空へと伸びる。

まるで何かの合図のように。


俺はその様子を、微笑ましい気持ちで見ていた。


隣にいたシグちゃんが、急に立ち止まった。


「……?」


「っ……なに、それ」


「え、右手上げるやつ? 子どもの交通安全の指導みたいなもんでしょ。ほら、小学校とかでも教えるやつ」


彼女は眉をひそめていた。


「……そうなんだ。じゃあ、“あれ”は……自分で選んだわけじゃない」


「まあ、そう……だけど?」


「変な気持ちになった。みんなが一斉に、同じタイミングで、右手を上げるのが……怖いっていうか、不自然」


「えーと……そ、そうか?」


言われてみれば、たしかに少し異様な光景にも見えなくはない。

でもそれはたぶん、教育的な安全策の一環で


「……自分の意思じゃなく、言われた通りに動くこと。みんなが、同じタイミングで、同じポーズを取ること」


シグちゃんは、そのままぽつりと呟いた。


「……それが一番、怖い」


その声には、なんとも言えない感情が滲んでいた。


恐怖か。反発か。あるいは


「……なんで怖いのかは、わからない。でも……好きじゃない。ああいうの」


「別に悪いことじゃないんだぜ?交通ルールのひとつで……」


「うん、わかってる。理屈では。でも身体が、ざわざわするの」


彼女は信号が変わるのを待たずに、また歩き出した。


俺は慌てて後を追いながら、胸の中にひとつの感情を抱いていた。


この子は、“自由意志”に異様なまでに敏感だ。


まるで、何かに“命令された過去”があるみたいに。


理由はわからない。

でも、たぶんそれはただの子どもが持つはずの感性じゃない。


日曜の朝の街は、今日も静かだった。

けれど俺の中では、ますます“確信に近い何か”が、静かに育っていく音がしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る