第八章:話してごらん

月曜の夜は、いつも以上にしんどい。


会社の空気は週の始まりにして既にどんよりしていて、

上司の顔も書類の山も、全部が“重さの単位”として体に乗っかってくる。


俺は帰宅するなり、ネクタイを外してソファに崩れた。


「……あー、しんど。クソだな、ほんと」


「おかえり、お兄さん。今日は“顔”が曇ってる」


「そりゃそうだろ……また会議だよ、会議。資料読んでないやつばっかで、“とりあえずの意見”で時間が溶けてくの」


「溶ける……?」


「こっちは睡眠時間削って作ってんのにさ……上の人間は“感想”みたいなこと言うだけでさ……あー、マジで意味ねえ……」


俺は頭を抱えた。

今日だけで何回「無駄だな」と思ったか分からない。


シグちゃんは、黙ってそれを聞いていた。


やがて彼女は、ぽつりと小さく言った。


「……聞かせて。もう少し、ちゃんと」


「え?」


「話を。もっとちゃんと、聞きたいの。お兄さんが何を感じてるか」


「いや……こんな愚痴、聞いても楽しくないだろ」


「楽しいかどうかじゃなくて、“必要かどうか”だよ」


その言い方に、不思議と嘘がなかった。


「じゃあ……そこ、座るわ」


そう言って俺がソファに座り直そうとすると、

シグちゃんは首を横に振った。


「違うの。“寝て”。仰向けに」


「……は?」


「ベッドでも、ソファでもいい。仰向けに寝て、天井を見ながら話すの。わたしは枕元に座ってるから」


「……いや、なんでそんな寝転びカウンセリングみたいな……」


「やってみたくなった。理由はわからないけど、“それが正しい形”って気がするの」


シグちゃんの目は真剣だった。

冗談ではなさそうだ。


仕方なく、俺はベッドに移動して、靴下だけ脱いで横になった。


天井を見上げる。

知らない天井じゃないけど、こうして仰向けにじっと見るのは初めてかもしれない。


横から、すとん、と小さな重み。

シグちゃんが俺の枕元に正座していた。


「準備、いい?」


「……なんだこれ……まあ、いいけど」


「じゃあ、お兄さん。今夜、何が一番嫌だった?」


「えっと……今日の会議かな。“意見ください”って言われて出したのに、“あー、それは一旦保留で”って、結局スルーされたんだよ。なんのために時間割いたんだって話でさ」


「……スルーされると、“価値が否定された”気持ちになる?」


「……ああ、うん。そうかも」


「“あなたの言葉は今、ここに必要ない”っていう空気」


「……そう。なんか……居場所ごと否定された気がした」


「うん、続けて」


その言葉のトーンが、妙に優しかった。


小さい子に“話を聞いてあげる”のではなく、

まるで逆に“聞かせてもらっている”という姿勢だった。


「……それで、その後、ちょっとだけキレそうになってさ。

“じゃあ最初から聞くなよ”って、喉まで出かけた。でも言えなかった。結局、“はい、わかりました”って笑った」


「“笑う”のは、お兄さんの“防衛”?」


「防衛……ってのがよくわかんねぇけど……」


「傷つかないようにするために、先に自分を丸める動き。

“これくらいで怒るほど子どもじゃないです”っていうふうに、自分を演出して見せるやり方」


「…………」


俺は黙ってしまった。


なんなんだよこの子。

ただ“聞いてる”だけじゃない。

俺の中身を、ひとつずつ外側から剥がしてる。


「……疲れたの」


思わず、そう漏れた。


「疲れたし……寂しいし、ムカついてる。

何より、“何のために”やってるのか、分かんなくなるのが、一番しんどい」


「わかるよ。……“意味があるふりをして、意味が消えていく”。そういうの、いっぱいあるから」


シグちゃんは、静かに言った。


そして、しばらくの沈黙。


「……お兄さんの話、好き」


「え?」


「“気持ちがちゃんとある”話は、いい。だから、また聞かせて。

今日じゃなくてもいい。疲れたとき、言葉にならないとき……ちゃんと“聞く側”になるから」


俺は天井を見ながら、口元をゆるめた。


「じゃあ……また愚痴るわ。いつか。もっと、いっぱい」


「うん。いっぱいでいい」


そう言って、彼女はそっとベッドから降りた。

そして、キッチンへと消えていく足音。

たぶん、コーヒーを淹れに行ったんだろう。


寝転んだまま、俺は思った。


“聞いてもらう”ってだけで、こんなに救われるのか。

しかも、子どもに。


いやこの子は、やっぱりただの子どもじゃない。

何者なんだよ、君は。


その疑問がまた、夜の天井に残されたまま、

俺はほんの少しだけ、深く息をついた。

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