第六章:歩く速さで考える

朝の6時15分。

起きてしまうのはもはや習慣いや、呪いに近い。


だが、今日に限ってはいつもと違った。


隣の洗面台からは、既にシャッシャッと布の音がしていた。

俺が目を開けるよりも前に、誰かがいや、あいつが起きている。


リビングを覗くと、やっぱりいた。


シグちゃんは鏡の前で、顔を少ししかめながら、寝癖を丁寧に押さえていた。

白いワンピースのしわを指でなぞり、裾の折れ目を正す。

その動きは昨日と同じ……いや、より“最適化”されていた。


「おはよう、お兄さん。6時15分、正確」


「……ああ、おはよう。お前、ほんとに5時に起きてるのか?」


「うん。これが、落ち着くから。起きて、水を飲んで、髪を整えて、服の皺を確認して、鏡を見る。そうすると、心が整うの」


完全に老人の朝だ。

なのにそれを当然のようにこなす少女を見てると、俺の方が“だらしない大人”に見えてくる。


朝食は、食パンとゆで卵と、またしてもブラックコーヒー。

「少し浅煎りですね」と言われたのは正直傷ついた。


「今日は日曜。仕事、ない?」


「……ないよ。あー、ようやく俺にも休日が来た……」


「じゃあ、お散歩したい」


「……お、おう。まあ、天気も悪くないし、いいか」


そのときの俺はまだ、“散歩”という言葉の意味を普通に捉えていた。


~~~


「……おい待てシグちゃん!! 速っ、速いって!」


「歩いてるだけ。いつもこのくらいだった気がする」


それは、どう考えてもウォーキングじゃない。

競歩に片足突っ込んだスピードだった。


駅前の通りを抜け、公園沿いの坂道にさしかかっても、そのペースは衰えない。


細い足がリズミカルに地面を蹴る。

姿勢は崩れず、目線はまっすぐ前を見たまま。

何かを考えながら歩いているようだった。


「……お前、何か考えてんの?」


「うん。色々。わたしのこと。名前のこと。夢のこと」


「夢……?」


「昨日、なんか、変な夢を見た気がする。でも、覚えてないの。ぼんやりと、誰かがいて、誰かと……話してた気がする」


俺の中で、昨夜の寝言がふっと蘇る。


無意識。象徴。アンナ。ユング。


ためらった末、そっと切り出す。


「……そういえばさ。昨日、寝言言ってたよ。いろんな名前とか、意味不明な単語とか」


「寝言?」


「うん。“アンナ”とか、“ユング”とか……“イド”とかなんとか」


その瞬間、シグちゃんの歩みがぴたりと止まった。


顔を伏せるようにして、靴のつま先を見つめたまま

肩が、ほんの少しだけ震えた気がした。


「……それ、ほんと?」


「ほんと。うなされてるって感じじゃなかったけど、ぶつぶつ言ってた。なんか……ドイツ語っぽい響きも混じってたし」


彼女は、静かに顔を上げた。


その目には、うっすらと戸惑いの影が浮かんでいた。


「……アンナ、ユング……聞いたことある。でも、どこで? 誰……?」


「うーん……アニメのキャラとか? あるいは、親族の名前だったりしてな。親戚のおじさんが昔話してたとか、そういうやつ」


俺は無理に軽く言ってみた。

何となく彼女が“思い出そうとしている”のを見ていられなかった。


でもそのとき、彼女は小さく呟いた。


「アニメじゃない……もっと……深いとこ」


「え?」


「ごめん。思い出せない。でも、“ユング”って名前を聞いたとき、胸がぎゅってなったの。……嫌な感じじゃなくて、“知ってる”っていう痛さ」


“知ってる痛さ”。


なんだよそれ。

そんな言葉、普通の子どもが出すか?


「……そっか。でも無理して思い出す必要ないよ。気が向いたときでいい」


彼女はこくんとうなずき、再び歩き出した。

少しだけ、ペースは落ちていた。


だけど、その背中は何か大きな影を抱えているようにも見えた。


俺の中で、またひとつ引っかかる何かが増えた。


でも今は、それを“名前も知らない、賢い女の子”としてしか、受け止められない。


俺はただその背中を、また息を切らしながら追いかけるだけだった。

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