第二章:名前のない生活
朝の6時15分。
いつものように体内時計が俺の意識を引き上げてきた。
けれど、今日は何かが違った。
部屋のどこかから、シャッシャッと細かな布の擦れる音。
鏡の軋む、ほんのかすかな音。
薄目を開けた俺の視界に飛び込んできたのは、洗面台の前に立つ小さな背中だった。
……あれ、夢じゃなかったのか。
白いレースのワンピースの裾が、昨日より少し整っている気がした。
少女はフリースの袖をきっちり折り返して、その中に細い指をきれいに揃えていた。
それだけじゃない。
彼女はまるで職人のような目つきで、自分の髪を指先で整えていた。
分け目、うねり、耳にかかる毛先の角度。
それら一つ一つに神経を注ぎ、何度も鏡に向かって頷いている。
「……おい、朝から何してんだ……?」
思わず声をかけると、彼女はくるりとこちらを向いた。
まばゆい朝日に照らされたその瞳には、はっきりと「自我」があった。
「身だしなみ。整えておかないと、気持ちが崩れるから」
そう言って、彼女はまっすぐにこちらに歩み寄ってきた。
そして、開口一番。
「コーヒー、ある?」
「……は?」
「ブラックがいい。できれば深煎り。酸味が少ないやつ」
その口ぶりがあまりにも自然で、俺は一瞬、彼女が“俺の娘だった”かのような錯覚を覚えた。
「ちょっと待て。なんで子どもが朝一でブラックコーヒー頼むんだよ……牛乳とかジュースじゃなくてさ」
「甘いのは気分が鈍る。それに、覚えてないけど……たぶん、これが“いつも”だった」
彼女はそう言って、テーブルの上に置かれたマグカップを手に取り、
何も入っていないそれを静かに見つめた。
「ねぇ……あなた、名前ある?」
「え?」
「わたし、名前ないの。思い出せない。たぶん、どこかで落としてきたみたい。……だから、あなたの名前を借りていい?」
「いや、俺の名前も別に特別じゃって、そもそも君、俺のこと“あなた”って呼ぶのか?」
「……じゃあ、お兄さん?」
その言葉に、不覚にもどきっとした。
語尾の柔らかさでもなく、声の高さでもなく
“選び方”があまりにも意識的だったからだ。
「お兄さんは……毎日、6時15分に起きるのね」
「お、おう……? なんで知って」
「時計。5時から起きてたから、見てた。ほら、寝相が……」
「やめろやめろやめろ!勝手に監視すんな!」
彼女は初めて、かすかにくすりと笑った。
その笑い方が、また少しだけ“大人びていて”
俺はますます、この少女の正体に自信が持てなくなっていく。
「……じゃ、コーヒー、いれて?」
「マジで言ってる……。胃が荒れるぞ?」
「慣れてる気がするの。よくわかんないけど、こういう“朝”だった気がする。もっと苦くて、もっと煙たい……そんな朝」
俺はしぶしぶ立ち上がり、インスタントの瓶を手に取った。
ブラック、深煎り、酸味少なめそんな都合のいいコーヒーはないが、せめて一番苦いやつを選んだ。
湯を沸かす間、少女はずっと部屋を見ていた。
物の位置、空気の流れ、陽の差し込み方、床の傷。
まるで“分析”でもしているかのような目で。
「この部屋、機能的ね。無駄が少ない」
「はあ? いや、ほとんど物ないだけだぞ。貧乏だから」
「……でも、秩序はある。順序が守られてるのは、悪くないこと」
どこかで聞いたことがあるような、いや、全然聞いたことのないような言い回し。
それは「何かを忘れてしまった人間」ではなく、
「すべてを理解してなお、黙っている誰か」の言葉だった。
「……名前、考えるか?」
俺は振り返って言った。
カップにお湯を注ぎながら。
この子にふさわしい名前本当はもう、答えを知っている気がしていたけど。
彼女は少し首を傾げた。
「わたしのこと……どう見える?」
俺は少しだけ考えて、そしてふっと笑って言った。
「見た目は、完全に迷子。中身は……たぶん、偉そうな哲学者」
彼女はなぜか、寂しそうに笑った。
そしてその笑みの奥に、かすかに自分が“誰か”だった記憶を探している気配が見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます