第三章:名前のない生活

「名前、か……」


コーヒーを淹れながら、俺はつい口の中で反芻するように考えていた。

目の前のこの少女は、自分の名前も分からず、年齢も曖昧で、でも喋り方だけはやたらと整っていて

何かが“ズレて”いる。


だからこそ、何か仮でもいいから“呼び名”があった方がいいと思った。

俺自身も、そうじゃないと彼女のことをどう扱えばいいか、わからなくなりそうで。


「名前、って……どんなのがいいんだ?」


「分からない。けど……あまり軽すぎるのは、いや」


「軽すぎる……あー、じゃあ“ピカちゃん”とかはアウトだな」


「うん、それはちょっと、舐められてる感じ」


「……じゃあ、“鉄仮面”」


「お兄さん、わたしの顔ちゃんと見て言ってる?」


睨まれた。すまん。

冗談で言ったつもりだったが、軽率だった。


湯気の立つカップをテーブルに置きながら、

それでもなお、俺の頭の中には名前らしいものが浮かんでこなかった。



でも

なぜかふと、脳裏にある漢字が浮かんだ。



“時雨”


季節外れの通り雨みたいに、突然現れた子。

静かで、でもどこか物憂げで、そして理由も分からずに俺の心に影を落としている。


「……“時雨”って漢字、知ってるか?」


「しぐれ?」


「ああ。季節の雨。静かで、でも忘れられないやつ」


彼女はしばらく黙っていた。

テーブルの木目をじっと見つめたまま、指先で文字をなぞるように、空中に何かを書いていた。


「……“時”と、“雨”」


「うん。読み方は“しぐれ”なんだけど、なぜか“シグ”って音が先に思い浮かんでな。……それで、どうかな」



「シグ……ちゃん?」



「うん。“シグちゃん”」



言ってから、ちょっと気恥ずかしくなった。

大の男が、いきなり“ちゃん付け”で名付けるのもどうかと思ったけど

でも、なぜかそれがぴったりくる気がしていた。


彼女は、目を見開いた。


それから、口元にそっと手を添えて、何度かその名前を口の中で転がした。


「シグちゃん……シグ、ちゃん……」


まるで、それを舐めて味を確かめるように。


「……気に入った?」


尋ねると、彼女はこくんと頷いた。


「なんだか、落ち着く。“ちゃん”って呼ばれるのも、悪くない」


「そっか……じゃあ、君は“シグちゃん”だ。しばらく、それで呼ぶよ」


「……ありがとう、お兄さん」


その言葉が、妙にくすぐったかった。

俺は「お兄さん」って呼ばれる年でもないし、そもそも他人に名前を与えるなんてこと、生まれてこの方なかった。


それでも、“名付ける”って行為が、これほどまでに責任を伴うものだとは思ってなかった。


「じゃあ、自己紹介しておくか」


「……うん」


「俺は、ただのしがない会社員。名前はまあいいや。“お兄さん”で」


「ほんとうに“お兄さん”でいいの?」


「いいよ。なんかそれで呼ばれると……悪くない気がする」


シグちゃんは、小さく笑った。

その笑い方は、まだほんのり不安を孕んでいたけれど

どこかで「安心した」ようにも見えた。


「お兄さん」


「ん?」


「“時雨”って、さみしい名前?」


「……どうして?」


「なんとなく。でも、そういうの……嫌いじゃない。ひとりで降って、ひとりでやんで、忘れられる」


「……」


俺はそれには、すぐ答えられなかった。

だけど、彼女がその名前を気に入ってくれたことだけは、確かだった。


その朝、コーヒーの苦味が、やけに長く口に残った。

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