第一章:追われていた

朝の6時15分に目が覚めた。


それはもう、目覚ましもアラームもいらない。

休日ですら、なぜか決まってその時間に目が覚めてしまう。

俺の人生はもう何かしらの「ルーチン」に取り憑かれていて、その規則から外れるとどこかソワソワしてしまう。


歯を磨いて、シャツに袖を通し、コーヒーを淹れる。

ニュースの音量は「9」。うるさすぎず、でも無音じゃ不安になるから。


「……昨日と、まったく同じ朝だな」


口に出してみると、途端にそれが不気味なことに思えてきた。

同じ朝を繰り返していることが、どこか現実味を失わせていく。

まるで、何か大事なことが見えないフリをしているような、そんな感覚。


~~~


夜。

いつものように残業して、いつものようにレトルトのハヤシライスを食って、いつものように湯船には浸からずシャワーで済ませて、いつものように


部屋に、異常があった。


玄関に落ちていたのは、レースの白い布だった。

最初はハンカチか何かかと思ったが、手に取ってみるとそれは小さな子ども用のワンピースの一部だった。

柔らかくて、薄くて、胸元のタグには見慣れない文字列が縫い込まれていた。


„Institut für Tiefenpsychologie“


(ドイツ語か……? なんだこれ)


不気味なほど冷たい感触が、指先にまとわりつく。


「おかしいだろ……俺、一人暮らしだぞ?」


夜中に誰かが服を投げ込む?いや、ドア閉めたし、鍵もちゃんとかけてる。

何より、こんなちまっこい服、どこから来た。


目を凝らす。そのときだった。




空気が、揺れた。


ブレーカーが落ちたような、一瞬の停電のような。

けれど明かりは消えていない。

ただ、空気そのものの“密度”が変わったような、そんな奇妙な圧力が部屋を満たした。



「ママァァアア……!!」



振り返る。

ありえない。

ありえないのに、そこに“いた”。


女の子だ。

小さくて、痩せていて、透けるような白い肌。

乱れた髪、破れかけたドレス。

震えながら畳の上で、必死に何かを探すように目を泳がせている。


「え……な、なに……?君、どこから……」


「……どこ……ここ……っ」

「ママ、いないの……っ、ママァ……!」


彼女は目の前の俺を見て、しばらく動かなかった。

涙に濡れた瞳が、こちらを見上げる。


俺は言葉が出なかった。

だって、少女が現れたんだぞ。

いきなり、自分の部屋に。


「ま、まって……君、名前は……?」


しばらくの沈黙。

やがて、ぽつりと彼女が口を開いた。


「……わからない……」


俺は聞き返した。


「……わからない?」


彼女はこくりと頷いた。



「……わたし、わかんないの。なにも……っ」

「誰かに……追われてた。逃げて……気づいたら、ここにいて……っ」



また、涙がぽろりと零れる。


「でも、ママ、いない。ママじゃないなら……どこ……」


混乱してるのは俺のほうだ。

「誰かに追われてた」?「逃げてきた」?どういうことだ。

そもそも、何者だよこの子……。


……少なくとも日本人ではないよな……。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。落ち着こう。まず……何歳だ?君」


問いかけながら、俺はそろそろと後ずさる。声が震えていたのは自覚している。目の前にいるのがただの子供だとしても、状況が状況だ。夜中に突然、見知らぬ少女が自宅に現れるなんて、どう考えてもまともじゃない。


「……わかんない。でも……小さい、って、言われたことある」


「いや、そうじゃなくて……なんでここにいるんだよ。誰が君を」


「……知らないの。気づいたら……目、覚めたら、ここだったの」


そう言って、彼女は震える指で自分のこめかみを押さえた。何かを掘り起こすように、痛みを耐えるように、ぎゅっと。


「追われてたの……“あれ”が、来ると思ったから、逃げたの。逃げて、逃げて……それで……」


「“あれ”って何だよ……誰が君を」


「わからない……でも、怖かった。すごく……頭の中で、誰かが何かを言ってくるの」


彼女の言葉はとぎれとぎれで、でもそれが妙にリアルだった。演技には見えない。本当に怯えているようだった。俺の中で、警戒と同時に、少しだけ“保護しなきゃいけない”って感覚が芽生えたのも事実だ。


「……とにかく。落ち着こう。まず服だ。寒いだろ。これ、着な」


俺はソファの上に放り投げてあったフリースの上着を手に取り、彼女に差し出した。彼女はおそるおそるそれを受け取り、まるで宝物を扱うように胸に抱えてから、そっと袖を通した。


「……あったかい」



かすかに笑った。いや、笑おうとした……かもしれない。

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