第二章 井辺杉花蓮さんの唯一な日々。
第一話 十九時四十二分
閉館作業の時間が、いちばん頭が冴える。
市立図書館二階の事務室で、黒川由利はパソコンの画面と向き合っていた。
カウンターのシャッターはすでに半分降ろされ、閲覧席からは椅子を戻す音だけがときどき聞こえてくる。
「今日もおつかれさまでしたー」
非常勤の職員がタイムカードを押して帰っていく。
その声を背中で聞きながら、由利は習慣でマウスを動かした。
日々の貸出・返却のログをざっと確認し、 予約本の取り置き状況をチェックして、
延滞者リストを明日分までプリントしておく。
図書館の一日は、大きな事件もなく、淡々とログの行として積み重なっていく。
それは、ある意味では安心な仕事だった。
少なくとも、この日の十九時四十一分までは。
◇
貸出統計画面から「本日の処理履歴」を開き、スクロールバーを一番下まで下ろす。
閉館直前のドタバタで返却が集中すると、ここにずらりと返却処理の記録が並ぶ。
子どもたちの借りた絵本。 受験生の参考書。
高齢者の健康本。
それぞれの「利用者ID」と「資料ID」が、規則正しく表示されている。
「あれ」
画面の一番下、最後の行で、由利の指が止まった。
今しがた返却処理をした本のログのはずなのに、
そこには見覚えのない表示が並んでいた。
利用者名:如月 遥
その名前を目にした瞬間、
由利の頭のどこかで、時間が一拍ずれた気がした。
如月遥。
十年前に、図書室から消えた同級生の名前。
指先が、ほんのすこしだけ冷たくなる。
「……え?」
思わず声が出た。
カーソルをその行に合わせて詳しい情報を開く。
利用者IDの先頭には「KISARAGI」とアルファベットで打たれ、
中身の数字部分は、見慣れた在学当時の生徒番号の形式になっている。
資料IDの欄には、やはり見覚えのあるラベル番号が表示されていた。
L-02-345 一般書(文学)
貸出日時 2025/02/03 19:42:08 処理端末 STAFF-03
処理ユーザー SYSTEM
由利は、そこまで読んで、もう一度目を瞬かせた。
「システム……?」
通常、ここには「KUR」だとか「ISHI」だとか、
カウンター担当職員のイニシャルが表示される。
SYSTEMというユーザー名に心当たりはあった。 でも、それはあくまで「教科書の中の単語」であって、
実際の貸出ログに出てくる類いのものではない。
ごく簡単に言えば、こういうことだ。
人が画面を操作して貸出処理をすると、ログには「人間のID」が残る。
プログラムが自動でなにかをやるときだけ、「SYSTEM」という名前が使われる。
少なくとも、市立図書館のマニュアルにはそう書いてあった。
「自動貸出……なんて機能は、うちのシステムにはないはずだけど」
つぶやきながら、由利は椅子を引き寄せ、画面に身を乗り出した。
十九時四十二分。
閉館五分前。
その時間、自分は何をしていたか。
頭の中で巻き戻す。
受付カウンターで、 「そろそろ閉館です」のアナウンスを流し、
絵本コーナーに残っている子どもに声をかけ、
返却ボックスの中身を回収していた。
端末には触っていない。
少なくともこの席からこのログを叩いた覚えはない。
STAFF-03という端末名にも、ちょっとした違和感があった。
「三番端末……」
カウンターの奥には、職員用の端末が二台。
事務室には、一台。
それぞれSTAFF-01、02、04という名前が付いている。
03は、館長室の机の上の古いパソコンだ。 通常業務ではほとんど使われない。
イベントのチラシを作るときや、報告書を書くときにたまに電源が入る程度。
閉館前の時間に、館長室のあの端末で何か貸出処理をする理由はない。
貸出相手が、十年前に消えた女生徒の名前である、という点を抜きにしても。
「……偶然?」
心のどこかでそう言い訳しかけて、
由利はすぐに打ち消した。
偶然にしては、出来過ぎている。
十年前の二月。 高校の図書室。
如月遥の失踪。
その事件のことは、忘れようとしても忘れられなかった。
当時一年生だった由利にとって、それは初めて身近で起きた「現実のミステリ」だったからだ。
卒業して図書館司書になった今でも、 ふとした拍子に思い出すことがある。
窓際の席に座る高校生の姿を見かけると、なおさら。
「……ログ、もっと前から見ておけばよかったな」
ぽつりとつぶやく。
今日たまたま、閉館後の確認作業で最終行まで目を通したから気づいた。 もしこれを見逃していたら、
十年ぶりの「如月遥」は、ログの奥に静かに埋もれて終わっていたかもしれない。
由利は、画面右上の「詳細表示」ボタンをクリックして、その行の生データを呼び出した。
タイムスタンプ、プロセス名、内部的なトランザクションID。
それらが、数行の英数字として表示される。
どこからどう見ても、
普通の貸出処理のログと構造は同じだった。
違うのは、ただ一つ。
その利用者IDが、
今ここには存在しないはずの人物を指していることだけ。
◇
とりあえず、証拠を残す。
由利は冷静にそう判断した。
ログ画面のスクリーンショットを撮り、 個人情報にあたるバーコード番号の部分だけを黒塗りにして、
自分の個人用フォルダに保存する。
念のため、紙でも残しておこうとプリンターに回した。
印刷中、事務室の窓から外を見る。
図書館の向かいにある市役所の庁舎は、すでにほとんどの窓が暗い。
残っているのは、情報政策課と一部の部署だけだろう。
そこに、十年前のミステリ研の先輩が勤めていることを、由利は知っていた。
真鍋俊。
市立図書館のシステムを作った人。 「図書館の裏側のことなら何でも聞いてください」と、
いつかの研修で冗談めかして笑った人。
あの人なら、この「SYSTEM」というユーザー名の意味を、
具体的に説明できるのかもしれない。
でも今、真っ先に顔が浮かんだのは、別の人間だった。
筑星高校ミステリ研究会・元部長。
十年前、如月遥の失踪をいちばん近くで見ていた先輩。
成瀬。
電話帳アプリを開き、
久しぶりにその名前を探す。
連絡を取るのは、最後のOB会以来だ。
何年ぶりだろう。
指が、一瞬だけ躊躇する。
でも、その迷いはすぐに消えた。
迷っているうちに、十九時四十二分からまた何かがずれていくような気がしたからだ。
「……まあいいか。どうせヒマそうだし」
半分は自分に言い訳するように、由利は小さく笑ってから
トークアプリを開いて短いメッセージを打ち込んだ。
先輩、お久しぶりです。
市立図書館の黒川です。覚えてますか。
変なログを見つけました。
名前は「如月遥」です。
今夜、少し電話できますか。
送信ボタンを押した瞬間、胸の鼓動がひとつだけ強く跳ねた。
画面上部の時刻表示は、十九時五十六分。 説明のしようのない数字の並びが、
さっきからじわじわと頭の片隅を占めている。
19:42。
十年前、由利が初めて「ミステリ」というものに惹かれた時間帯。
放課後と夜の境目にぶら下がっているような、あの空気の濃さ。
プリンターから吐き出される紙を取り上げ、
それをクリアファイルに差し込む。
その動きは、
まるで自分自身を事件に巻き込む契約書にサインをしているようでもあった。
◇
成瀬からの返信は、意外と早かった。
既読マークがついてから、ものの数十秒後。
黒川? 生きてたんだな。 如月遥の名前って、あの如月か?
電話、今からでもいい。
文章の軽さに、由利は思わず苦笑する。
この先輩はたぶん、
どれだけ時間が経ってもこういう感じなのだろう。
「……よし」
自分に聞こえるくらいの声でそう呟き、
由利は「通話開始」のボタンをタップした。
図書館の事務室には、もう誰もいない。
送風だけが残った空調の音と、
通話がつながるまでの僅かな沈黙。
ワンコール目が鳴り終わるころ、
由利はようやく気づく。
今日これから話すことは、
十年前、図書室から消えた同級生のことだけじゃない。
「ミステリ研究会」という小さな部室で、 自分たちが遊び半分に語っていた
「現実と物語の境目」の話を、
今度は真剣にやり直さなきゃいけないのだと。
カチ、と通話がつながる音がする。
「もしもし、成瀬です」
高校時代より少し低くなった声が、
耳元で響いた。
「黒川です。
あの、先輩。ちょっと変なことになってまして」
由利は深呼吸をひとつしてから、
ゆっくりと言葉を選び始めた。
十九時四十二分のログの話と、
そこに浮かび上がった名前の話をするために。
図書室と図書館のあいだで、 十年間くすぶり続けていた余白が、
ようやく音を立て始めた瞬間だった。
井辺杉花蓮さんの唯一な日々。―― 川べり図書館で「一度きり」をあつめる話 ―― 髙橋P.モンゴメリー @shousetsukaminarai
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