第三章 淡くほどける夜

 九月の終わり。

 外に出ると、夜風が夏の名残をほんの少しだけ含んでいた。


 結婚退職する看護師の送別会は、笑いと涙に包まれた温かな時間だった。

 テーブルには花束、寄せ書き、飲みかけのグラス。

 一度きりの夜がゆっくりと終わりへ向かっているようだった。


 一次会がお開きになる頃には、皆、顔を赤らめていた。

 「藤原先生、二次会どうです?」

 「明日、日勤なんで。すみません。」

 「私も早番なので帰ります。」

 彩がそう言った瞬間、偶然にも“帰るのは二人だけ”になった。


 他のスタッフが賑やかにカラオケへ流れていく。

 取り残されたような静けさに、

 どこか秘密めいた空気が生まれた。


 駅までの道を歩く。

 街灯がゆらゆらと路面に揺れて、

 酔いかけた二人の影を細く伸ばす。


 「先生、酔ってます?」

 「少しだけ。北川さんの方が飲んでましたよ。」

 「急いで飲んじゃって……。明日早いから、つい。」

 軽い言葉のやり取りに、声よりも沈黙の方が甘く感じられた。


 ふと彩が笑って言った。

 「先生って、歩く姿まで整ってますね。」

 「整ってる?」

 「うん、なんか……背筋がきれいで。

  支えてくれそうというか……。

  抱きつきたくなる感じ、というか(笑)。

  ……抱きついちゃってもいいですか?(笑)」


 冗談のつもりだった。

 けれど、酔いと胸の奥の熱がその“冗談”を薄くする。


 藤原は少しだけ息を呑んで、

 困ったように笑った。

 「……いいですよ。」


 その一言が、彩の心の底で何かを切った。

 誤魔化すつもりの笑いはもう出てこなかった。


 ゆっくりと腕を伸ばし、彼の背中に触れる。

 白衣ではない、体温のある距離。

 指先に伝わってくるのは、

 思っていたよりも強い、確かな“存在”だった。


 「ありがとうございました。」

 慌てて腕を離し、彩は背を向けて歩き出す。


 その瞬間、藤原は咄嗟に腕を掴んだ。

 強くはなかった。

 ただ、その温度は迷いを含まない、ひとつの決意だった。


 「……北川さん。」


 呼びかけた藤原自身も戸惑っていた。

 でも、その声を聞いた瞬間、

 彩の中で何かが静かに崩れ落ちていった。


 ――もう、戻れない。



 重なっていた息が離れたとき、

 部屋には静けさだけが戻っていた。


 照明は落とされ、

 その薄明かりに二人の輪郭がゆっくり浮かび上がる。

 彩はシーツをつまんだまま動けずにいた。

 胸の奥に沈むものが、自分の後悔なのか、彼の痛みなのか分からない。


 藤原もまた息を整えながら、

 現実へ戻っていく残酷な時間をただ受け止めていた。


 彩は冗談めかすように口を開いた。

 「先生、週刊誌に撮られたら困るので……先に出ますね(笑)。」


 笑ったはずの声は、どこか震えていた。


 藤原は呼び止められなかった。

 止めれば壊れ、

 止めなければもっと壊れる予感があった。

 どちらも選べずに黙っていた。


 ドアが閉まる音が、やけに冷たく響いた。



 藤原はベッドに腰を下ろし、顔を両手で覆った。

 “家族を裏切った”という言葉が胸を締めつける。

 けれどその奥で、

 “久しぶりに生きている心地がした”という感覚がどうしても消えなかった。



 彩は夜風に頬を冷やされながら歩いていた。

 酔いが薄れ、現実の輪郭が静かに戻ってくる。

 肌に残る熱とは裏腹に、心は冷えたままだった。


 ――一夜の過ち。


 でも、あの瞬間だけは、

 誰かに必要とされた気がした。


 雲の切れ間から薄い月が顔を出す。

 冷たい風が彩の頬を撫でた。

 その風だけが、彼女の涙の理由を知っていた。

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