第ニ章 淡い気配

 九月、病棟の空気が少しだけ落ち着きを取り戻す季節。

 彩はいつも通り、電子カルテを開きながら指先を動かしていた。


 ちょうどその時、朝の回診から戻ってきた高松先生が、

 手袋を外しながら藤原に声をかけた。


 「そういえば藤原、昨日休みだったよな?

  子どもの行事って言ってたが、どうだった?」


 電子カルテの入力を終えた藤原が、静かに振り返った。


 「幼稚園の発表会でした。

  上の子、緊張して固まってしまって……」

 頬を少し掻きながら、柔らかく笑う。

 「帰ってから『次はちゃんと踊るの』って、家で一生懸命練習してました。」


 高松は「可愛いな」と目尻を下げた。

 彩も自然と微笑む。


 ——ああ、この人は“父親”なんだ。


 その優しさの温度は、

 仕事中の冷静さとはまるで違っていた。


 けれど、同時に胸の奥に

 薄く冷たい膜のような距離も生まれる。


 近づいてはいけない。

 そう思うほど、視線がそっと藤原を追いかけてしまう。



 昼前、胸痛を訴えた患者の対応で病棟が一時ざわついた。

 若い後輩が慌てて酸素マスクを装着しようとして手が震えたその瞬間、

 彩がさっと手を添えた。


 「ゆっくりでいい。焦らないで。」


 後輩の呼吸が落ち着くのを確認してから、

 スムーズに処置を整えていく。


 モニターの数値が安定して、後輩が小さく息をついた。

 「先輩……ありがとうございます。」


 「大丈夫、大丈夫。」

 彩は笑い、トントンと後輩の肩を叩いた。


 そのやり取りを、少し離れた場所から藤原が見ていた。

 いつものように淡々と見えるその表情には、

 わずかに柔らかな光が宿っていた。



 午後。

 ナースステーションは落ち着きを取り戻し、

 電子カルテの光だけが静かに揺れている。


 彩は点滴の予定を確認しながら、

 椅子に座る藤原の横を通った。


 何かを話すわけではない。

 ただ、近くにいるだけ。


 その静けさが、なぜか心を落ち着かせる。

 触れていないのに、触れられそうな距離。


 その微妙な温度差に気づくたび、

 胸の奥がきゅっとなる。


 ——勘違いしてはいけない。

 ——“誰にでも優しい人”なんだから。


 そう言い聞かせても、

 目は自然と背中を追ってしまっていた。



 勤務終わり。

 着替えを終え、彩がロッカー室から出ると、

 後輩が嬉しそうに話しかけてきた。


 「先輩、来週の送別会、めっちゃ楽しみですね!

  藤原先生も来るみたいですよ。」


 「そりゃあ、みんな来るんだからね。」

 彩は笑いながら返したが、

 心臓がほんの少しだけ跳ねる。


 次の瞬間、その反応を自分で笑ってしまう。


 ——ほんと、ばかみたい。


 でも、止められなかった。



 病院を出ると、秋の風が頬を撫でた。

 空は夏より少し高く、そして静かだった。


 白い息が出るにはまだ早い季節。

 けれど胸の中に浮かんだ感情は、ひんやりしている。


 “何も始まらないまま”

 そうやって季節が通り過ぎていけばいいと、

 頭では理解しているのに。


 足音と一緒に、

 心のどこかで微かな気配が揺れていた。


 名前を持たないまま、

 まだ風にもならないほどの弱い予感。


 でも、確かにそこにあった。

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