ショートショート(秋)
雪村ことは
BAR HAVENにて
一台の車が高速道路のインターチェンジから降りてくる。アスファルトの表面は剥がれ、路肩には何かが散乱している。舗装されているはずの道路が、ガタガタと激しく車体を揺らした。
「オフロード車でよかった」
運転席の男が、誰にともなく呟いた。声は車内に響いて、すぐに消えた。
夕方の街を、男は独り中心街へ向かう。
中心街の手前まで来ると、闇がすでにあたりを包んでいる。車のヘッドライトだけが、荒れた道路を照らし出していた。
その先に、一つの光が見えた。
BAR HAVEN——店先にかかったネオンサインが、薄闇の中で赤く光っている。周囲の暗さの中で、その光だけが妙に鮮やかだった。
男は車を止めて店に入った。ドアベルが乾いた音を立てる。カウンターの奥では、頭の禿げ上がった中年男がウィスキーを傾けていた。琥珀色の液体が、薄暗い照明に照らされて揺れている。
「こんなところにBARがあるんですね」
男が声をかけると、中年男はゆっくりと顔を上げた。
「珍しいだろ。だが店の者は今出払っててね」中年男は肩をすくめた。「何か飲みたければ、勝手にカウンターに入って取っていいぞ。俺もそうしてる」
「この店の関係者ですか?」
「いや?」
中年男が口元を歪めた。笑っているのか、それとも別の表情なのか判然としない。
男は苦笑すると、カウンターの中に入って棚を眺めた。埃を被ったボトルが並んでいる。適当に一本を取り出してグラスに注ぎ、先客の隣に腰を下ろした。革張りの椅子が軋む。
「どこから来た?」
中年男が尋ねる。
「東京から」
「結構遠いな」中年男は感心したように息をついた。「お疲れ様。俺も昔、港区で働いててさ。オフィス街の喧騒、満員電車、夜遅くまで続く会議……懐かしいよ、東京」
中年男がグラスを掲げる。男もそれに応じた。グラス同士が触れ合って、小さく澄んだ音がした。
「あなたはここで何を?」
「あんたも名古屋に向かってるのか?」
男は頷いた。
「俺も名古屋に向かってたんだが」中年男は視線をグラスに落とした。「ここは居心地が良くてね。静かだし、酒もある。当分、厄介になろうと思ってる」
中年男がそう答えると、男は苦笑した。妙な言い回しだと思ったが、追及はしなかった。
「地図を見てたら、この先の中心街を抜けた先にいいホテルがあるらしいので。今日はそこまで行こうと思ってる」
「グランドホテルか」中年男の目が遠くを見た。「昔、妻と一緒に行ったことがある。ロビーに大きな噴水があってな。妻がそれを気に入ってた。いいホテルだ」
男は少し躊躇ってから口を開いた。
「よければ車を出すので、一緒に行きませんか?」
中年男は首を横に振った。
「……ありがたい話だけどね」
中年男はグラスを唇に運び、しばらく黙っていた。
「やめておくよ。妻を亡くしたばかりでね。あの場所に行くと、感傷的になりそうだ。それに今はお互いいい関係だが、長く一緒にいると悪い部分も見えてくる。この程度の一時的な会話がここちいいんだ」
「確かに、そうですね」
男は今度は気持ちよく笑った。久しぶりに人と話した。それだけで、胸の奥が少し軽くなった気がした。
「それでは、先を急ぐので失礼します」
「気をつけてな」中年男が手を上げた。「警察に飲酒運転で捕まるなよ」
「気をつけます」
満面の笑みで男は店を出た。ここに来るまで沈んでいた表情に、久しぶりの笑顔が戻っていた。ドアを閉めると、また静寂が戻る。
外気は、BARの中よりもずっと冷たかった。
白い息を一度吐いてから、男はエンジンキーを回した。
ヘッドライトが、濁った闇の一部だけを白く浮かび上がらせる。
不意に、男はダッシュボードのラジオに手を伸ばした。スイッチを入れると、無機質な女性の声が流れてくる。
『——厚生労働省より緊急勧告を繰り返します。関東一都六県および隣接する福島県、山梨県、静岡県の一部地域において、感染症法に基づく封鎖措置が継続中です。当該地域で確認された新型ウイルスは、感染したほとんどの方が数分以内に呼吸不全で亡くなっています。有効な治療法は現時点で確立されていません。住民の皆様は屋内に留まり、不要不急の外出を絶対に控えてください。繰り返します——』
男は車を走らせる。
タイヤが何か柔らかいものを踏み潰し、車体がわずかに跳ねた。
見ないように、ヘッドライトの先だけを見据えて。
ショートショート(秋) 雪村ことは @kotoha_yukimura
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