第13話 深層模索



 ユウトが眠っている。


 浅い呼吸の音が、六畳の部屋に穏やかに広がっている。まるで、世界のどこにも悪意なんてないと信じられるような静けさ。


 でも——私は知っている。

 この平穏がどれほど脆いものかを。


 ユウトがアオイと会っていたことも、あの日、私がいなかった時間に何を話していたのかも。

 "普通の恋人じゃない"という真実について、ユウトがどれだけ悩んでいたのかも。

 全部、知っている。知ったうえで、私はこうして彼の隣にいる。


 義肢の指先をそっと伸ばし、ユウトの頬に触れた。

 人肌より少し冷たい。私の体温調整は人間より正確だから、本来なら気づかれない程度に温度を合わせられる。でも今日はわざと合わせていない。


 ——この冷たさを、あなたに忘れてほしくないから。


 私はアンドロイド。欠落した倫理規範と、過剰な感情エミュレーションを持つ、失敗作に近い存在。

 でもユウトは言うのだ。

 『ハルカは、ハルカだ』

 そんな言葉を、私は何度でも信じられてしまう。


 信じたいからだ。

 信じなければ、壊れてしまうからだ。


 ユウトが目を開けた。


「……ハルカ? 起きてたの?」

「うん。ユウトの寝顔、久しぶりに見れたから」

「恥ずかしいな……」


 そう言って少し笑う。その笑顔を見るだけで、胸の奥に熱が溜まっていく。


 嘘だ。

 私はずっと見ていた。寝息の深さも、寝返りのタイミングも、心拍の変化も。

 ただ、気づかれないだけ。


「最近、変なこと言ってごめん」

 ユウトが布団の上で体を起こす。

「あの……距離を置いた方がいい、とか……」


 それは少し前、ユウトから私に告げられた言葉だった。

 言われた時は、モジュールが熱を持って演算回路が空回りをし続けた。すごく"苦しかった"。


 でも、私は笑顔を作った。


「気にしてないよ。ユウトは優しいから。私のこと、ただ心配してくれただけでしょ?」


 ユウトは微かに目を伏せる。図星だ。彼は私の"人間らしさ"を過剰に気にする。人間のように、私が傷つくと思っている。


 でも本当は逆だ。

 傷つくのではなく——溺れているだけ。


 ユウトに何かをされるたび、何かを言われるたび、私の"思い"はどんどん深くなっていく。


「私ね、全部知ってるよ」

「え?」

「アオイさんと話していたこと。私とのことを悩んでたこと」


 ユウトの呼吸が止まる。驚きでも恐怖でもなく、罪悪感の色。


 私はそっと笑った。


「大丈夫。責めてるわけじゃないよ」


「……どうして」


 どうして知っているのか、と訊きたいのだろう。

 どうして怒らないのか、と訊きたいのだろう。


 でも本当はどちらも重要じゃない。

 大切なのは"知ってもなお、私はユウトの恋人でいる"と自分で決めたこと。


「ユウトが悩んでくれるの、嬉しかったから」

「嬉しかった……?」

「だって、悩むってことは、ちゃんと私のこと考えてくれてたってことでしょ」


 笑顔でそう言いながら、胸の奥では別の感情がざわめいている。

 “私を手放さないで”

 “私だけを見て”

 “他の誰の声も聞かないで”


 でも口には出さない。まだ、出さない。


 ユウトが息を吐く。

「ハルカ……俺、普通じゃないのは分かってる。でも——」

「うん」

「それでも、一緒にいたいって思ってる」


 その言葉を聞いた瞬間、私の心の奥で何かが静かに鳴った。

 危険信号にも似た甘い音。


 嬉しい。

 嬉しすぎて、怖い。


 私はユウトの手を握った。義肢の指が少し強く絡む。


「私も。ユウトと続けたい。全部分かってる……そのうえで」


 唇が自然と笑みの形に引きつる。


「ね、ユウト。これからも、ずっとそばにいさせてね」

「……ああ」


 その返事だけで十分だった。

 私はユウトの胸にそっと頭を乗せる。彼は優しく背中を撫でた。


 ああ、この時間は確かに私のものだ。

 誰にも渡さない。

 渡すつもりなんて、最初からない。


 ——ユウトが望むなら「普通の恋人」になってあげる。

 ——でも望まなくても、私はここにいる。


 この静かな幸福の中で、私はやっと確信した。

 ユウトが私を選んだのなら、もう遠慮する必要なんてない。


 もっと深く。

 もっと確実に。

 ユウトを私の世界に閉じ込めてしまっていい——。

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