第3話 第三章:見えない街
翌週の金曜日、工場の昼休み。
印刷室の隅にある不要原稿の回収箱を整理していると、三島は一束の紙を見つけた。
古びた茶封筒に入っており、宛名の部分に油染みのような跡がある。
そこには薄くボールペンで書かれた文字があった。
──発注者:広長書店。
三島の指先が止まった。
封を開けると、薄いクリーム色の上質紙に黒インクが印字されていた。
タイトルは、『透明人間』。
まるで、それが自分たち――三島と広長――の物語であるかのように思えた。
印刷日付の欄を見ると「令和五年四月」。
つまり、半年前。
広長がまだ書店を閉める前の時期だ。
恐らく、彼がこの原稿を工場に持ち込んで試し刷りを依頼したのだろう。
だが、受付記録にも請求データにもその名前は残っていなかった。
つまりこれは、正式な依頼ではない。
おそらく、誰にも知られないまま印刷された“宙ぶらりんの原稿”だった。
夜、三島はその紙束を鞄に入れて持ち帰った。
部屋に戻ると、机に広げ、蛍光灯を点けた。
十数枚の紙には、同じ書体の整った文字が並んでいる。
読み進めるほどに、インクの匂いが鼻の奥を刺激した。
一枚目を読む。
「街を歩いても、誰も僕に気づかない。
声をかけても、ぶつかっても、誰も振り返らない。
僕の体はまだここにあるのに、世界からは削除されたようだ。
名前も、顔も、声も、どこかへ消えていく。」
続くページには、こうあった。
「見られることと、生きていることは、ほとんど同じ意味を持っている。
誰かが僕を見てくれれば、僕は存在できる。
けれど、誰の視線も僕を通り抜けていくとき、
僕はただの空気と化す。
透明人間というのは、特別な存在じゃない。
みんな、すこしずつそうなっていくんだ。」
文字を追ううちに、三島の指先が汗ばむ。
自分の胸の奥にある、誰にも触れられない空洞を、誰かに言語化されてしまったような気がした。
「僕には、もうひとりの“透明人間”がいる。
同じ時間を生きているのに、
お互いの存在を確かめる術を失った友人だ。
彼の名前は──」
そこから先の行が、かすれて読めない。
インクが滲み、文字の形だけが地図のように広がっていた。
ページをめくるたびに、言葉がどこかへ消えていく。
まるで印刷された世界の中から、誰かの存在が剥がれ落ちているようだった。
最後のページ。
そこには、インクがわずかに溶けたような筆跡でこう書かれていた。
「見えないのは、俺じゃなくて、お前らのほうだ。」
三島は紙を伏せ、深く息を吐いた。
胸の奥で何かが脈を打っている。
広長がこれを書いたとき、どんな気持ちだったのか。
書店を失い、街の人々に見えなくなっていく自分を、
彼はこの文章で残そうとしたのではないか。
──見えないのは、お前らのほうだ。
その一行は、怒りにも、悲しみにも読めた。
だが、三島にはそれが“呼びかけ”のようにも思えた。
お前は、まだ俺を見ているか、と。
部屋の蛍光灯が、かすかに点滅した。
光が弱まり、また戻る。
窓の外を見ても、誰もいない。
それでも、背後に視線を感じた。
「……広長?」
振り向いたが、部屋には紙束と影だけがあった。
風もないのに、一枚の紙がふわりとめくれた。
紙の裏には、手書きでこう書かれていた。
──三島へ。
インクの匂いが濃くなる。
目を閉じると、あの夜の広長の声が聞こえた気がした。
「また今度な」
その言葉が、鼓膜の奥で何度も反響した。
まるで、彼の声がまだこの部屋の中に滞留しているようだった。
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