第3章 実在 -3
3 帰れない
都立赤沢病院。
そこは、渋谷から歩いてしばらく行くとある。都会のど真ん中だ。
私と室長は、田村さんのあの不穏な車に乗せてもらい、そこへ赴く。
大病院で、私達職員は何かあるとお世話になるところ。
健康診断で要検査項目なんかがあると来る場所だ。
「ここ、嫌なんだよなぁ。来るたびタバコの吸い過ぎを指摘される」
室長がぼやく。
「お医者さんの言うことは聞いてよね」
当たり前のことを言われてるだけじゃん。
「吸い過ぎには間違いないもん」
「分かっちゃいるんだがねぇ」
室長は頭を掻く。
空は厚く雲が垂れこめていて、冷たい雨が今にも降ってきそうだ。
空気がナイフみたいに冷たく、痛い。
車から降りた私達は、身震いした。
「今年の冬は、寒いね」
私に例のキャップを被せながら、田村さんが呟く。
キャップはカーキ色で、アメリカの野球チームか何かのロゴが入っている。
普通に、彼の私物だろう。うっすら彼の匂いがする。優しい気持ちになる。
私はそれを、目深にかぶる。
「今年は夏は暑かったし、冬は寒いし、極端だな」
室長はトレンチコートの前を手でぎゅっと握る。猫背気味の細い背中を、余計丸めて風に耐えてた。
面会窓口に行く。
裏口で、寒々しさが増す。
「こちらに入院している、長岡泰さんに面会したいのですが」
室長が窓口の人に問いかける。
窓口の人はPCに向かいキーボードをカチャカチャと鳴らす。
だいぶ古い型のPCだ。
私達は、黙ってそれを見守る。
やがて。
「長岡泰さんですか」
窓口の職員さんが口を開く。
「こちらには入院していませんよ?」
「え、医療保護入院になってるはずですが、面会できないだけじゃなくて?」
室長が顎に手をやる。
「ええ、入院されていません」
職員さんが確認するように首を縦に振る。
私達は、互いの目を見た。
そんな、馬鹿な。
引き返して車に戻り、暖気を回してもらう。
寒くて凍えそうだ。田村さんが悴んだ手に息を吹き、温めている。
後部座席の室長は、じっと何かを考えていた。
「これは、家に帰すわけにはいかないかもしれない」
私を見る。
「やっさんも、奥さんがいるときに堂々と連れ去られた。そして、病院にはいない」
どこへいってしまったのか。
やっさんの、目尻の皺を思い出す。歳を重ねた優しい目。
「匿いましょうか?」
田村さんも口を開く。
「僕なら、職場にも連れて行けるし、彼女を見守ることができます」
「それもいいかもしれんな」
室長が低い声で呟く。
「え」
ちょっと待って。
あの、えっと、田村さん、一人暮らしだよね?
一応私、女だし……そんなのアリ?
「何もしない」
田村さんが私の目を見た。
「誓って、何もしない。だから、うちに来ない?」
何もしない──いや、されたって一向に構わない、とは思うけど。
体を見られるのだけは嫌だな。この傷だけは。
「本当に何もしないな?」
室長が田村さんを睨む。
「うちの可愛い娘に手を出さないな?」
いつ室長の娘になったんだ、私は。
田村さんは頷く。
「下心があるわけじゃないですから」
無いのか……なんとなく複雑な気持ちになる。
ってか、なんで私、こんな気持ちになってるんだ?やだ!
どきん、と、胸が鳴る。
「じゃあ」
室長は後部座席から、少し身を乗り出して私達を見遣る。
「これから、秋元くんの家に行ってくれ。ご母堂に直接話をする」
え。
ママに「田村さん家にお泊まりするからね」って言いに行くの?
「当面の服とか生活用品もいるだろう、一度家に戻して支度させて、それから職場に戻ろう」
「あ、あの」
室長の話を、私が遮る。
「本当に、田村さん家に行くの?私」
「嫌か?ウチよりゃいいだろう?」
室長の家……それも変な話だ。ってか、どうしてそういう二択になる?
「分かった」
守られる立場だ。私は頷いた。
「田村さん家に行く。本当にいいの?」
田村さんは、車を走らせ始めた。
「きみが嫌じゃなかったらね」
そして、真顔で親指を立てた。
ママは、驚いた顔をしていた。
当たり前だ、娘が何者かに狙われているので、職場の同僚……っていうか上司に当たる人のところに匿われるって言われたんだから。
「あの、うちの子がご迷惑をかけて」
少し混乱しているようだ。そこなのか、心配するところは。
「なんかこの頃、この子、精神的に参ってるみたいで……変なことばかり言うし」
脱線事故の話か。変って言わないでよ。まぁ、「ありもしない事故」の話をされたら変だと思うか。
「僕がお預かりします」
田村さんが、ママに告げた。
「誓って、変なことはしませんから」
って、おい!
なんか恥ずかしくなって、自室に駆け込む。
変なことって、あのね!?
「まぁ、うちの娘も大人ですから、心配はしてませんけど」
大人なら何してもいいの!?ママも。
仕事が終わって、私は、田村さんと一緒にエレベーターを降りた。
途中で、飯島さんが乗ってくる。
「お疲れ様です」
そう声をかけてくれた飯島さんは、千鳥格子のコートの下にダウンベストを着ている。スマートな人だと思う。黒縁のメガネに、チャコールグレーのウールのマフラー。
「あの件、どうなりました?」
田村さんに耳打ちをする。
「今調査中です。またお世話になるかも」
田村さんも、静かに返す。黒のダウンジャンパーのジッパーを上げた。
私は、赤いチェックのマフラーに顔を埋めた。あのカーキ色のキャップを被って。
エレベーターが1階に着いて、飯島さんは駅に向かう方に歩き出す。
「あれ?秋元ちゃん、駅じゃないの?」
私は、田村さんと一緒に、駐車場の方に向かおうとする。
「あ、うん、ちょっと」
そして、飯島さんに手を振る。
「ばいばい」
飯島さんも、手を振る。
「ばいばい」
──その様子を、田村さんが、なんだか憮然とした顔で見ている。
なんだろう、私が飯島さんと話をすると、いつもそんな顔するんだよなぁ。
なんだか、可愛い。
車の中は、すぐ暖かくなって、ホッとする。
いや、ホッとしている場合じゃないぞ。私、これから田村さんの家にお泊まりに行くんだぞ。
ただ遊びに行くんじゃないんだぞ。
静かな室内に、私の心音が漏れ出してしまいそうだ。
「あの……」
田村さんも、何やら困ったような顔をしている。
「ご飯、どうしようね。なるべく早く家に行きたいから、外食にしてもササっと済ませたい」
そうだよね。あんまり外でウロウロしてたら、また防犯カメラに見つかっちゃう。
「ハンバーガー」
私は思いつきを言う。
「ハンバーガー食べたい。それならすぐに食べ終われるし」
「そんなんでいいの?」
田村さんは、拍子抜けしたみたいな顔をする。
「奢るから、何食べてもいいよ?」
「ダメだよ」
私は首を横に振る。
「奢られるために行くんじゃないもん。デートじゃあるまいし」
──デートじゃあるまいし。
口から出して、ちょっと後悔する。
デートでもいいんだけどなぁ。
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