第3章 実在 -4

4 静かな夜



田村さんの部屋は、何も無かった。


ものが多くてぐちゃっとしてる私の部屋と全然違う。

ミニマリスト?っていうかな。

それも、信念でやってるんじゃなくて、生きてたらそうなっちゃったみたいな、そういう雰囲気だ。


「殺風景でごめんね」

彼は、慌てて電気をつけ、ローテーブルにクッションを置く。

「これ、使って」


それから、何か大きな荷物を解く。

「昼のうちに布団頼んでおいたんだ。これ、買ったばかりで綺麗だから、使って」

「そんなに気を遣ってくれなくても……」

遠慮する。

いや、でも、お布団なかったら、二人で一緒に寝るとかになっちゃっても困るし、お布団は嬉しいかな。


仕事着のニットとスカートでいるのは、疲れる。お風呂場をお借りして、着替える。

どこもかしこも、物がなくて、キレイだ。

性格出てるよなぁ……。


スウェットの上下を着て、お風呂場から出てくる。

できるだけ可愛く見える、パステルブルーのスウェットにした。

なんで私、可愛さを求めたんだ?いや、何にもしないはずだぞ?


私が着替えている間に、田村さんも着替えていた。

温かそうなフリースの上下に、なんと、半纏を羽織っていた。


──負けた!

可愛さで負けた!!!

なんなのこの可愛い生き物は!


「部屋、寒かったらごめんね」

彼はエアコンのリモコンを握って、こちらを見る。

「上に羽織るもの、なんかあるかな……外で着てるダウンとかならあるけど」

そわそわしてる。

空気が、落ち着かない。もう、座ってよ。

笑いが込み上げる。


そして、コーヒーを淹れてくれる。

サイフォンだ。

「これね、アンディで見て、やりたくなっちゃって」

漏斗にネルのフィルターをセットし、豆を入れる。

フラスコにミネラルウォーターを入れて、漏斗をセットし、アルコールランプに火をつける。

アルコールが揮発する匂いがして、湯が沸くポコポコとした音が聞こえる。


「これからが楽しいんだ」

まるで理科の実験をする少年のような目で、それを見る。

ランプの温かな色が、目に映る。


フラスコから湯が漏斗に上がる。

彼は竹篦でコーヒーを掻き混ぜる。

やがて、コーヒーはまたフラスコに落ち、濃い茶色の液体になる。


「うわぁ」

私はそれを、半分口が開いた状態で見ていたと思う。

魔法みたいだった。

普段彼が淹れてくれてるドリップも不思議だけど、これは面白い。


「どうぞ」

彼はそれを、マグカップに入れて出してくれる。自分のは、お茶碗に。

「マグカップ、1個しかなくて。買ってくるかなぁ」

苦笑しながら、お茶碗に口をつける。

「お茶飲むんじゃないんだから、これじゃ調子出ないよな」


ふふ。

お腹の中から、微笑みが上がってくる。

この人と一緒にいると、何も悪いことが起こらない気すらする。

「コーヒー、美味しい」

温かい。

「良かった」

静かに、微笑んでくれる。

この人、笑うと目がなくなるんだ。いいな……。


視線を感じた。

怯えているだけかもしれない。でも、嫌な気配が窓から入り込む。

「あ」

開いたままのカーテンの向こうに、防犯カメラが見えた。

この位置まで見張られることはないけれど、怖い。


「ああ」

彼はカーテンを閉めてくれる。

「気づかなくてごめんね。見えてないとは思うけど」


「怖い」

──そのとき、感情がやっと動いた。

そうか、やっぱり私は、怖いのだ。

「私に何が起こってるのか、分からない」

口から自動的に出る言葉。

「他の人に無い記憶があったり、防犯カメラに狙われたり、連れて行かれそうになったり」

涙が出るわけではない。もう泣き飽きた。でも、それと同時に感情が動かなくなっていた。


「怖いよ、田村さん……」

私は下唇を噛んで、俯いた。

コーヒーの濃い茶色に、自分の顔が浮かぶ。

疲れた顔。


田村さんは──


私の手を、ぎゅっと握った。

「怖いよね」

そしてその目は、私の目をとらえる。

「仮説だけど……僕の中では全部繋がってる」


「だいぶ真実に近づいたと思う。聞く?」

彼の目が、迫る。

私は、深く頷いた。

そろそろ、何が起きているのか知りたい。



「FORTUNAってシステムね」

彼は、自分のPCを開き、プロジェクターに繋ぐ。

白い壁に映し出された像には、国民向けのFORTUNAの解説が書かれていた。

「基本、ウェルビーイングを司る、国のシステムだ。人間に、健康で幸福っていう状態を与えるためのもの」


そこには、

「データに基づいて健康を支え、安心できる『幸福度の高い』日本を目指します」とある。


「このシステムの中に、たった一行、自動生成されたものと思われる文言が入っていた」

そして、彼は手元のメモ帳にペンを走らせる。

「IF stability < threshold THEN DELETE source_of_instability」

声に出しながらそれを書くと、ペンを置く。


「安定性を欠くものは削除する」

何度聞いても、怖い。

私は削除されようとしている。

時計を見る。──止まっていた。


「これね、安定性を欠くもの、人だけじゃなくて事象も消してしまってるんだ」

蛍光色のLEDが少し寒々しい。

私は自分の肩を抱いた。


「寒い?」

田村さんは、半纏を脱いで私に着せ掛けてくれた。

体温の跡が、温かい。

「でも、これじゃ田村さんが寒いよ?」

「大丈夫」

彼は、さっき外で来ていたダウンのジャケットに腕を通した。

「寒くない」


「でね」

彼の声は、優しい。でも、少しだけ、お腹に力が入った。

「きみが見た脱線事故。それも、消されたんだ」


消された──


「さらに、それを消しきれなかった、きみややっさんのような人のね、存在をも消そうとしてる」

彼は静かに、茶碗に唇をつける。

暖房の乾燥した空気が肌に痛い。


「もともとそんなシステムじゃなかったんだ」

彼は、スマートウォッチのコードを自分のうなじのジャックに繋ぐ。

そして、改造されたそれから出る光線を、壁に映し出す。

「これは、僕が見てきたFORTUNAのコードだけど」

見ても分からないけど、見てみる。


「こいつは、後天的に学習したんだ。幸福値を上げなければいけない、ならばその値を下げる要素を消そうって」


「後天的に学習?」

そんなこともあるのか。私が首を傾げていると、田村さんはわかりやすく説明をしてくれる。


「このシステムは、AIなんだ。人工知能。学び、成長していくシステム」

彼の講義を聞いているような気分になる。

大学時代を思い出すな。私、文系だったんだけど。

「本当は、新しい可能性を探るためにそういうシステムにしたんだけど、間違った方向に学習しちゃったんだ」


「えーっと、つまり」

思わず手を挙げて訊ねる。

「幸福のために働くAIが、表面上全体が幸福であるという体面を保つために、幸福度を下げそうなものを消してるってこと?」


「ご明察」

田村さんに褒められた。

えへ。


私は、疲れてきて、クッションに身を任せてゴロリと横になる。

「ってことは、FORTUNAのその間違ったコードを取り除けば、元に戻るんじゃ?」


「元には戻らない」

彼は首を横に振る。

「物理的に消したものは、元には戻らない」


ゾッとする。

やっさんは、帰ってくるのだろうか?

私は──


「ねぇ」

私は、起き上がって言った。

「怖い」

私も、取り除かれてしまう。

加瀬くんのように。ひょっとしたら、やっさんのように。

私は、ここからいなくなりたくない。


「大丈夫」

彼は、笑いかけてくれる。

「僕がなんとかするから、信じて」

そして。


ぎゅ、っと、抱きしめてくれた。


どうしよう、心臓が跳ねる。

彼の腕の中に抱きすくめられた。視界は暗く、湿度のある温み。

ああ……信じていいんだな、と思う。


彼は、私をそっと離して、続けた。


「ただそのコードを取り除くだけだと、元に戻せるものも戻せなくなる。そこは慎重に『手術』してやらないと」


彼が何かをしてくれようとしているのは分かった。

私は、恐怖と安心の、あべこべな感情に翻弄されていた。

安心?よく分からない。でも、甘くて優しい、ホットケーキみたいな気分だった。

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