第2章 時計の針を -1
1 クオリア
ご飯が食べられなくなった。
体の中の何かが、嵐みたいに逆流している。たった2日。記憶の齟齬が、私の中で膨張していく。
加瀬くんの家に、行ってみた。
昔、みんなで遊びに行ったことがある。その記憶を辿って町を歩いた。
「加瀬」という表札の出ている家は、たしかにあった。
けれど、中から出てきたおばさんには、
「うちには子供はいませんけど」
と言われてしまった。
「そんなことはないはずです、航平くんっていう──」
するとおばさんは、
「どうしたの、あなた。可哀想にね、頭がおかしい子なのかしら」
と言われてしまった。
頭がおかしい子、なのかもしれない。
自分のことが信じられなくなっていく。
まるで、自分という現象が、全て嘘で出来上がっているかのように。
私は、嘘。
そう思ったら、何も手につかなくなった。
ここにいる私も、今まで生きてきた私も、嘘なのかもしれない。
感じていること、今見ているもの、全てが本当は存在しないのかもしれない──
なんだか、疲れてしまった。
仕事に出ていても、仕事に気持ちが入らない。
この光景も、夢なのかもしれない。今目の前にいる田村さんも、私が勝手に作り出した幻なのかもしれない。
このコーヒーの味も、香りも、実は夢なのかもしれない。
そう思ったら……
「秋元さん?」
田村さんが、私の元まで駆け寄ってきた。
「秋元さん、どうしたの?」
私は、涙を流していた。泣こうなんて思ってなかった、ただ勝手に涙が流れていった。
「田村さん……」
私は、ただ下を向いて、デスクの上に涙を落としていた。
「おい、田村くん、秋元くんを泣かすな」
室長が心配そうにそんなことを言う。
「なにしたんだ」
「泣かしてないですよ、人聞きの悪い」
田村さんも心配そうな声色のまま、冗談に応じる。
「秋元くん」
室長が、静かに声をかけてくれる。
「お前さん、ここんところおかしいぞ。なんか辛いことがあったなら、話してみないか?」
私は、首を横に振った。
「どうせ、誰も信じてくれない」
田村さんは、私の耳元で囁いた。
「大丈夫だから」
そして、私の肩に優しく手を置く。
「不必要にうちの姫に触るな」
室長が田村さんの手を振り払う。
「もっとも、姫を守る気概があるなら別だけどな」
「や、守るのはしますよ!でもやめてくださいよ、ホントに人聞きの悪い」
守るのはしますよ。
その言葉に、私は込み上げてくるものを抑えられなくなった。
彼氏でもないのに、優しい。
この人は、私が作り上げた理想の同僚なんじゃないだろうか。
この優しい人達は、本当に実在してくれているんだろうか。
声をあげて泣いてしまった。
もしも実在しなかったら、私には何の価値もない──
「室長」
田村さんが、振り払われた手をもう一度私の肩に置く。
「場所、変えませんか?その方が話しやすいかも」
「おお、いいねぇ」
室長が手を叩く。
「いい店知ってるから、行くか。ナナ、しばらく留守番頼む」
「はい、いってらっしゃい」
ナナも、アンドロイドなのにその辺の機微がわかっている。
『喫茶 アンディ』
看板は古く、少し埃が積もっている。
ホーローの看板には「たばこ」の文字。これは多分、ただのレトロ趣味だろうと思うが、お店自体50年くらい経っていそうな風情だ。
「よぉ、マスター」
室長は、少し敷居が高く見える木製の扉を開けて、挨拶をする。
マスターは、重厚な一枚板のカウンターの向こうで、サイフォンに火を入れていた。
白いシャツに、黒い蝶ネクタイ姿だ。
「ああ、高槻さん」
「ちょっとね、ここで秘密会議をさせてほしくて」
室長はマスターから灰皿を受け取った。今日日、よほどの趣味の店でないと、タバコの吸えるカフェなんて無い。そういう意味で、お気に入りの店なのかもしれない。
「あ、彼ら、俺の部下」
「お邪魔します」
田村さんが目を輝かせている。サイフォン、好きだろうなぁ……ポコポコと音がして、お湯が上にどーっと上がっていって……その様子に見入る。
店の中には一人、カウンターにお爺さんが座っている。
そのほかには誰もいない。
コーヒーを淹れる音以外は、壁時計のゴチ、ゴチという時を刻む音しかしない。
静かで、空気が凪いでいる。私の心音まで聞こえてきそうだ。
4人がけの席に、私を座らせ、その隣に田村さんを座らせて、室長は向かいの席に座る。
「ところで」
室長が口を開いた。
「秋元くん、どうした?」
できる限り優しい声を出そうとしているのがわかる。
大丈夫、普段の室長でも怖いと思ったことはないから。
コーヒーが3人分、テーブルに置かれる。
茶色くて、ぽってりとした焼き物のコーヒーカップ。私の好きなタイプだ。
それに口をつける。
そして、
「誰も信じてくれないかもしれないけど……」
と、ことの次第を話した。
あの日、鉄道事故が起こった。
私の高校の時のクラスメイトが、亡くなった。
大きな事故で、大勢が見ていて、大勢の死傷者が出た、はずだった。
それが、全く、「無かった」。
どこにもそれがあった証拠がない。
お通夜にも出た加瀬くんは、いなかったことになってる。
室長は、手首のスマートウォッチをクルクルと回していた。無言で、時間を弄ぶように。
そんなにブカブカにしてたら、心電図とかとれないじゃん……まぁ、私はつけてないんだけど。それよりマシか。
「そんで、お前さんは、自分の記憶と世の中の記憶が違っていることに辛さを感じてるんだな」
うん。
私はこくりと頷いた。
「そんなこと、あるか?」
室長が田村さんを見る。
田村さんもじっと考えていたが、やがて口を開いた。
「分からない、でも、何かあるのかもしれない。根拠は無いけど、秋元さんが感じることには何かあるような気がする」
そして、私に言う。
「そんな事象があるのか、調べてみたくなったよ。僕に何ができるわけじゃないけど、ちょっと待ってて」
私は、少なくとも田村さんに「何かあるような気がする」と言ってもらって──また、涙が出てきた。
「泣かないで、大丈夫だから」
何が大丈夫なのだか、きっと彼にも分かっていない。でも、私の味方になろうとしてくれてるのは分かった。
「お前ら、マジで付き合わんの?」
室長が呆れたような声を出す。
「何で付き合う付き合わないになるんですか!?」
田村さんは、簡単に耳まで赤くなる。
「秋元さんが困ってるのを、放っておけますか?」
付き合おうって言ってもらったら、ホイホイついていっちゃうんだけどなぁ……。
いいよね、多少そういうことを考えても。
どうせ今の私は、実在してるんだかどうだかも定かでない人なんだから。
私は、本当に、ここにいるんだろうか。
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