第2章 時計の針を -2
2 その記憶
そのとき、奥にいたおじいさんが、ガタリと動いた。
「マスター、言ったじゃないか、やっぱりあったんだよ」
私たちの話を聞いていたみたいだ。私の方を見る。
「あのお嬢さんが見たって言ってるんだよ。あったんだよ、脱線事故が」
──脱線事故?
おじいさんは、マスターに向かって一生懸命話す。
「5日前の話だ。誰も覚えてないなんて変だろ、あったんだよ」
そして、おじいさんは私の腕を見る。
「おお」
カウンターの席から降りて、彼は、ヨタヨタと歩きながらこっちへやってきた。
カウンターには杖が引っ掛けてある。
「お嬢さん、その腕時計は」
私の腕を取る。
「シチズンのデラックスだな。お嬢さんがするにはだいぶ古い時計だが」
私は、呆気に取られた。そして、恐る恐る、時計を外す。
「父の形見なんです。その父は、祖父から譲り受けたんだそうで」
「おお、いいな。機械時計は壊れても直せる。そうやって若い人に使われるのは嬉しいことだ」
おじいさんは、時計を、愛おしそうに見つめる。
「やっさん」
それをマスターがたしなめる。
「や、失礼。俺は元々時計職人でな、つい懐かしくて」
おじいさん……やっさんが、私に時計を返してくれる。
やっさんの手首にも、腕時計。スマートウォッチではない。
「今時はみんな、コンピュータをここにつけてるだろ。お嬢さんみたいなのは珍しい」
そして私の目をじっと見る。
「事故、あったよなぁ?」
その声が、私の胸の奥で何かを『思い出させた』。
気づけば、頷いていた。
その様子を、室長と田村さんがじっと見ていた。
田村さんが、スマートウォッチに巻き取られていたケーブルを伸ばし、うなじのジャックに繋ぐ。これをすると、彼の頭の中に、直接情報が届くんだよね。
なんか、そんなの自分で作っちゃったとか。すごいというか、ちょっと怖い。
田村さんは顔をあげ、私に向かった。
「秋元さん」
「え」
「僕なりにちょっと調べてみようと思うんだ。少しだけ、心当たりがある」
──何に?
聞く前に、彼は、微笑みながら言った。
「記憶がおかしくなってること、我々が知らない電車の事故のこと」
そして、コーヒーを少し啜って、続けた。
「僕は、秋元さんの言うことに興味がある。あのおじいさんも同じことを言った。何かあるのかもしれない」
少し斜め下に視線をやりながら、頭を掻く。
「秋元さんのこと、信じてみようと思う」
「田村さん……」
泣きそうになった。孤独だった私に、味方がついてくれたように思えた。
「何だかずるいぞ、田村くん」
室長が口を尖らせる。
「俺には何が何やらさっぱりだが、秋元くんが苦しんでいるのは嫌なので」
そして、また冗談を言う。
「本当、なんでお前さん達付き合わないのかねぇ」
「僕なんか秋元さんの相手にならないでしょう?」
田村さんはすぐに否定する。やっぱり……田村さんが、私のことを好きになるなんて、ないよね。
まぁ、いいや。
この二人がいてくれれば、私はここに存在しているのかもしれない。
もしそれが嘘だったとしても、とりあえずこの二人を信じてみようと思う。
──に、しても。
私は、あの「やっさん」というおじいさんの言葉が気になって仕方がなかった。
「事故、あったよなぁ?」
これだけ一生懸命、事故があったことを証明しようとしてもダメだった。
やっさんの一言だけが、私の中での証拠だ。
仕事が終わった後、「喫茶アンディ」に寄ってみた。
寒さで悴んだ手で重たい木の扉を開くと、マスターと、やっさんがいた。
暖房の空気が肺に入り込む。柔らかくて、暖かい。ホッとする。
「いらっしゃい」
マスターが私を見て、呟く。
「ああ、高槻さんの」
私は、ぺこりと頭を下げる。そして、カウンターに、やっさんと並んで座る。
「ああ、機械時計の子」
やっさんが、時計を見て言った。
「お父さんの形見だって言ってたな」
「覚えててくださったんですね」
ヨボヨボのお爺さんだ。よく覚えててくれたなぁって思う。
「珍しいからな、腕時計をしてる若い子なんて」
やっさんは、老眼鏡を外し、読んでいた新聞の上に置いた。
目尻の皺に、目が埋まってしまいそうな感じだ。優しそうなおじいさん。総白髪は、光を放つようにすら見えて、綺麗だ。
「俺さ、誰にも聞いてもらえなかったんだ」
やっさんは、新聞紙を手で撫でながら呟く。
「お嬢さんは電車の脱線事故、見たんだろ?俺は、ニュースで見た」
私は頷きながらお話を聞く。
「ところが、2日経った朝には、みぃんな『そんなものは知らん』ってよ」
2日経った朝……まさに、私と同じ体験を、この人もしている。
「かみさんには、とうとう認知症になったかって言われちまって、俺もそうなんじゃないかって諦めてたところだったんだ」
同じだ──
私は、注文したロシアンティーに手をつける。紅茶にジャムがついているのだ。
それを紅茶に入れようとして、マスターに止められる。
「ロシアでは紅茶の中にジャムを入れないそうです」
そして、ジャムを舐める仕草をする。
「こうやって紅茶のお供にするんですって」
私はジャムをひとなめして、紅茶をいただいた。
パンにも塗らないジャムを食べるのは、なんとなく背徳感がある。
やっさんは、そんな私を目を細めてみていた。
「お嬢さん、……孤独ではなかったか?」
私の手が止まる。
紅茶の表面に、明かりが揺れた。
「ええ、とても」
心の底からそう思った。
「私なんか本当は存在しないんじゃないかって思いました。私だけが持っている記憶なんて、おかしいもの」
「俺も、あんたが話すまでは、孤独だった。ボケちまったかと思ってた」
そして、目を閉じ、また開く。
「お嬢さん、名前は?」
「秋元凛子、っていいます」
やっさんは、ニコリと笑った。
「凛子ちゃん、か。俺は、長岡泰。まぁ、みんなにはやっさんって言われてる」
そして、胸を叩く。
「86歳の爺さんだが、まだボケてるつもりはない」
笑う。久しぶりに、笑った。
「よろしくお願いします。やっさん」
店の扉が、開いた。
お客さんが来た──と、思った。
白い息を吐きながら来たのは、田村さんだった。
「あ」
思わず声が出てしまう。
ダウンのジャンパーに埋もれるようにして現れた彼は、私を見て、丸い目を余計丸くした。
「あれ、秋元さん」
そして。私の隣に座る。
「いたんだ。一緒にくればよかったね」
そして、マスターにブレンドコーヒーを頼む。
アルコールランプに火がつくと、独特の匂いがする。
「この匂い、いいんだよなぁ。僕もサイフォン、やってみようかなぁ」
彼は、目を閉じて匂いを楽しむ。
「なんで、来たの?」
私は、少しこそばゆい気持ちになりながら、尋ねる。職場の外でこの人に会えるのは、なんか嬉しい。
いや、なんで嬉しいんだ?たまたま会っただけなのに。
「うん、そちらのおじいさんに話を聞いてみたくて」
ああ、私の話を気にしてきてくれてるんだ。
「時間遅いけど、いらっしゃるかなって思って来てみたんだ」
「やっさん」
私は、やっさんに声をかける。
「私の同僚……いや、上司だな、田村智司さんです」
田村さんは、静かに頭を下げる。
「田村さん、この方、やっさん」
やっさんも微笑む。
「なんだ、仕事仲間か。凛子ちゃんの彼氏かと思ったよ」
「えっ」
「あのっ」
私達は、二人して横に手を振る。
「いや、そういうのじゃなくて」
「違うんです」
そして二人して否定する。
いや、本当に、そういうのじゃない……そういうのじゃないんだ……。
耳が熱くなる。
田村さんも、赤くなってる。
そして私とやっさんは、自分たちが見たものを田村さんに話した。
やっさんは、テレビや新聞のニュースで事故を見た。
私は、実際に見た。
田村さんは、じっと考え込んだ。
私達の顔と──手首を、交互に見る。私の左手首にも、やっさんの同じ位置にも、腕時計が時を刻んでいる。
「ふむ」
彼は、何かを納得したようだった。
その時はまだ、それだけだった。
お店は静かで、掛け時計がボーンと鳴ったのが唯一の音だった。
時間は、午後7時になっていた。
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