第1章 消えた面影 -2
2 悼傷
私は結局、2日仕事を休ませてもらった。
本当はきっと、あの優しい人達に囲まれて慌ただしく過ごしていた方が気が紛れたかもしれない。
ただ、もう、体が動こうとしなかった。自室の椅子に座ったら、何時間もそこから動けなくなってしまった。
──私のせいだ。
私があの時声をかけていたら、加瀬くんはあの電車に乗り遅れただろう。
そうすれば死なないで済んだんだ。
私が顔の傷を気にして、この顔を加瀬くんに見せたくなくて、声をかけあぐねてしまったから──加瀬くんは死んだんだ。
高校時代の友達からメッセージが届く。
ありさちゃんは私が加瀬くんを好きだったことを知っている。
『りんりん、大丈夫?』
大丈夫、じゃない。
私は、泣きながら、ハートマークを送った。
お母さんが心配して、ミルクティとクッキーを持ってきてくれた。
私は、ミルクティにお砂糖を3杯入れる。普段はこんなに甘くしないけど、今はとにかく甘やかされたい。
なんか、座っているのも疲れてしまった。
ベッドに潜り込む。
加瀬くんを知る人には誰にも話せない。私が声をかけられなかったこと、それで彼が死んだこと──。
泣き疲れて眠っていたら、スマホが震える音がした。
メッセージ着信のバイブレーションだ。
3件もメッセージが来ていた。
重い腕でスマホを掴み、見る。
1件目は、ありさちゃんだ。
『ご飯食べれてる?』
心配してくれている。有難いな。
高校の時からの友達はほとんど残っていない。大事な人だ、と思う。
2件目は、田村さんからだった。
『こちらは心配しなくていいからゆっくり休んで。話し相手が必要だったら声かけてくれていいからね』
ああ……
もうね、できることなら頬ずりしたい。
ホント、彼氏でもなんでもない、職場の同僚……というか、正しくは「上司」なんだけど。
涙がスマホに落ちて、慌てて拭いた。
3件目は──
加瀬くんのスマホからだった。
『航平の父です』
と始まるそれは、お通夜のお知らせだった。明日の夜だそうだ。
ああ、本人がもう見ることのない加瀬くんのスマホには、まだ私の連絡先が入っていたのか。
どれを読んでも、泣けてくる。
私はそれぞれに簡単に返事を書いてスマホを置き、布団にくるまってまた目を閉じた。
翌日、私は慌てて買った喪服を着た。こんなもの、まだ要ると思ってなかった。
社会に出るときに母が「必要になるから」と買ってくれたパールのネックレスとイヤリングをつける。
まさか、加瀬くんのお通夜でこんな格好をするなんて。
淡く化粧をし、リップクリームを塗る。
額を隠すために、左に前髪を寄せて髪留めで留める。いつものスタイルだ。でも、今日は念入りに支度をした。
私があの時引き留めていたら、こんなことにはなっていなかった。
額の傷が恨めしい。──それにこだわらなくちゃならない私が、私の過去が、全て恨めしい。
黒いコートを着て、黒いパンプスを履き、出掛ける。
マフラーだけは黒いのがなかったので、グレーのウールのものを巻く。
日が暮れてしばらく経つ冬の夜は、冷え込んで痛いほどだった。
「あ、りんりん」
斎場に着くと、ありさちゃんが私を探し出してくれた。
手を握ってくれる。
「こんなことで再会したくなかったね」
私は頷くことしかできない。
ありさちゃんとは、メッセージのやり取りはしていたものの、18歳のときから一度も顔を合わせていなかった。
加瀬くんの棺は、蓋が閉じられていた。
顔を見ることもできない。
──多分、見せられるような顔じゃなくなっちゃってるんだ──
その現実に、私は泣き崩れた。
もう、あの笑顔を見ることもない。
挨拶を交わすことすらできない。
そう思ったら、胸が壊れた。
呼び止めればよかった。
呼び止めれば、こんな──
「りんりん……」
ありさちゃんが私の背中を撫でる。
優しい、温かい手だった。
手首には黒いバンドのスマートウォッチが光る。
私はその時、高校生に戻っていた。チェックのスカートが揺れ、長い髪をポニーテールにしていたあの頃に。
髪の上で艶が跳ね、私は太陽の下で笑っていた。
その髪は焼け、それ以来髪を伸ばしていない。
あの、髪が焦げる嫌な臭いを、私は忘れない。
髪だけじゃない、自分が焦げていく臭い。
そして、パパの声。私を逃してくれた温かい手、私の後ろで崩れ落ちる梁、パパがいなくなった日──
パパのお葬式には出られなかった。私が全身火傷で入院していたから。
だから、弔事に参列するのは、これが初めて。
斎場は寒くて、黒い手袋を脱げなかった。手のひらを見る。人が死ぬということを思い出す。
パパも、加瀬くんも、死んでしまった。ふたりとも、私のせいで死んだんだ。
加瀬くん──
柔らかい茶色の髪をしていた。
駅で見かけた時も同じだった。
涼しげな目、引き結ばれた口……美しい人だった。
サッカー部のキャプテンだったし、憧れていた子はたくさんいたに違いない。私もそのひとりだった。
ただの「そのひとり」だっただけなのに、今ここで大声を上げて泣いている。
加瀬くんは驚いているに違いない。
お通夜を終え、私はトボトボと家に帰った。
喪服を脱ぎ、お風呂に入ってお香の匂いを取り、パジャマに着替えてベッドに倒れ込む。
誰も知らないけど、彼が亡くなったのは私のせいだ。
考えたくなくても、それが脳裏から離れない。
ぐるぐるとそこを行ったり来たりしている。
遠くに車の爆音が響いていく。
冬の夜空は遠く、キラキラと星が瞬いている。
私はベッドの上から寝転がったまま窓の外を見つめ、そしてカーテンを引く。
この罪を、神様はどう罰するのか。
私には分からなかった。
パパが死んだ時、神様は私に傷痕という罰を与えた。
加瀬くんが死んだ今、私はどうなってしまうのか──
非現実的だと思う。
自分でも何を考えてるのか分からない。
加瀬くんだって、私が声をかけたら助かったかもしれないが、私が声をかけなかったから死んだわけではない。
頭では理解していても、心がそれを拒否した。
私、少しまいっちゃってるんだな。
やっと少し冷静になれた。
心がしんと静まりかえる。
ざわざわと私を追い詰めていた、嫌な考えが少しだけ身を潜める。
暖房の音だけが部屋に響く。
さっき送られてきたメッセージを見る。
ありさちゃんがますます心配して、何度もメッセージをくれていた。
『少し気が動転してたみたい。ありがとう、もう大丈夫』
そう入力して、送る。
少しどころではない、だいぶ気が動転していた。
明日は、室長と田村さんにお礼を言わなくちゃな。
あんなに取り乱しちゃって、心配かけてると思う。
ちゃんと仕事に行って、ちゃんと仕事しよう。
私は、お布団の中で目を閉じる。
そのまま、眠りの夜の住人となった。
明日になれば、この痛みも少しは薄れているだろう。
──まさか、痛みごと全てこの世から消えるだなんて、思っていなかったけれども──
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