第1章 消えた面影 -1

1 思い出の人



今年の冬は、息をするたび肺が凍る。

まるで、世界ごと冷凍庫に閉じ込められたみたいだ。

ただ、その清洌な空気を、私は愛してもいた。


手袋の指に息を吹きかけながら、電車を降りた。

スカートの裾を直す。

今日も1日が始まる。

大勢の人が電車を降り、次の電車に乗る。


現代、2041年までの施策の中でも、まるで成功を収めていない分野が「通勤」だ。

「幸福度世界一」を目標に掲げるこの国のなかでも、幸福とは全く無縁の時間。


テレワークが議論された時期もあったが、結局人と人が会って話をすることに進展性があったとの結論が出ている。

要は、アイディアは人と話すことでできるのだ。


で、通勤は世の中のほとんどの人が続けることになったわけだけれども、我々の数は輸送可能量のギリギリいっぱいだ。

いつも、パンパンに膨らんだ電車に詰め込まれて通勤をする。

何十年も、下手をしたら100年単位で変わっていない、日本の交通事情。


電車を降りると、息を吐かざるを得ない。

朝から疲れた人の波を追う。

私もその飛沫の一人だ。


ふと。

顔を上げた。見たことのある背中だ。

人混みの中に、その人はいた。

「──加瀬くん?」


口が勝手に呼んでいた。

心臓が、昔の拍子で跳ねた。


懐かしい。高校の卒業式を最後に会ってないから、もう10年近くになるのか。

「加瀬くん」

声をかける。

「加瀬くん、秋元です、秋元凛子」

肩を叩こうとする。


しかし、その手は加瀬くんには届かなかった。

イヤホンを耳に入れた彼には、私の声も聞こえない。

でも、確かに、加瀬くんの横顔だった。



マゼンタ色の思い出が蘇る。

私は、恋をしていた。

クラスメイトで、サッカー部のキャプテンだった加瀬くん。

もちろん、クラスメイトとして話はする。しかし、それ以上に踏み込むことは、私にはできなかった。


そんな私が、たったひとつやったこと。

フェルトで作ったマスコットを渡したのだ。

サッカーボールの形を作り、裏に「Koh.Kase」と刺繍した。

加瀬航平くんへ、それを渡した。

笑顔で受け取ってくれて、その場でカバンにつけてくれたっけ。


ただ、その直後に私の家は火事で無くなった。

父は私を庇って命を落とし、私は顔と背中に大きな火傷の痕を残した。


この顔では、もう恋などできない──


私はその片思いを諦め、卒業まで彼と話をすることもなかった。

当時はまだ傷が生々しく、赤黒く、そして医師には「一生治らない」という残酷な告知を受けていた。



私の脳裏に、その傷が浮かんだ。

私はそれ以上、加瀬くんを追いかけられなかった。

足を止める。

加瀬くんは、振り向くことなく、次の電車に乗った。


それでいいんだ。

今あの思い出を追いかけても意味がない。

私は左の額を撫でた。ボコボコとしている。火傷の痕、ケロイドがそこを支配している。


ちょっと懐かしかっただけ。

私は、踵を返して、自分が乗る電車を探した。

隣のホームだ。階段を登る。


今日は災害対策部全体の会議がある。私が特別対策室の代表で出席するんだけど、なんで私なんだろう?

各係から代表が出てくるんだから、係長の田村さんが出てもいいんじゃないかしら?

あの会議はひたすら眠い。

私には向いてないよ──


その時。

強烈な金属音がした。

空気を切り裂いてしまいそうな、高音。ヒーという、音の暴力。


「脱線したぞ!」

誰かが叫んだ。

「5番線から見える!」

人が隣のホームに流れる。


脱線──

野次馬の流れに押されて、私も隣のホームが見える場所に動く。


あれは。

さっき、加瀬くんが乗った電車。


車両が折れるように重なっている。前の方までは見えないが、どうも車両が車両の下敷きになっているらしい。


私は、何も考えられなかった。


線路を伝って、怪我をした乗客がホームに引き上げてくる。

何人も続く。血だらけだ。

「前の方は地獄だ」

彼らが呻く。


加瀬くんは?

怪我人を見る。彼の姿は無い。

やがて、怪我をしていない人達もホームに避難してくる。

通勤時間帯の、大量の乗客。加瀬くんの姿を確認することはできない。


最悪の事態が頭をよぎる。


とは言え──私がここにいてなんの役に立つ?

膝が震え、まっすぐ歩けない。

少しずつ前に進み、立ち止まって息を整え、ふらつく肩を立て直して、私は私の電車に乗った。


そんな、あれだけの人達が無事にホームに戻ってきているんだ。

悪いことなんか、起こるわけがないじゃないか。



なんとか職場にたどり着くと、私はカバンを抱きしめたまま自席の椅子に座り込んだ。


「おう、秋元くん、おはよう」

今朝も早くからデスクを雑巾で拭いている、高槻室長が声をかけてくれる。

「なんだ、顔色悪いぞ。調子悪いか?」


「脱線……」

私は、譫言のように呟いた。

「脱線事故……見ちゃって、その……」


「脱線事故?」

室長は、立ち上げたばかりのPCに触り、ニュースサイトを繋ぐ。

「ああ、これか?」


上空から撮っている映像は、その全容を示していた。

スピードを捕まえようとした電車は、線路を外れ横転し、後ろの車両に折り重なるように乗り上げられていた。

最初の4両は、めちゃくちゃだ。

その後ろに続く8両も、半分以上横倒しになっている。


逃げ出してきた乗客がインタビューされている。

頭から血を流しているその乗客は、6両目に乗っていたという。

「私は頭を打っただけですが」

その人は、声を振るわせながら語る。

「同じ車両に乗っていた人も、かなりの数が担架で運ばれました」

焦点の合わない目をしている。


「怖いもの、見たな」

室長が私の背中を撫でてくれる。

「お前さんの感受性じゃ、これは辛いよな」


「どうしたの?秋元さん」

給湯室でコーヒーを淹れ終わり、田村さんが執務室に戻ってきた。私の様子を見て驚く。

「顔、真っ青だよ」

「それがね、脱線事故を間近で見たらしくて」

室長が代弁してくれる。


「あの」

私は、泳ぐように手を動かした。

「死傷者……どうなってる?」


「死傷者?」

室長がマウスを握る。調べてくれるらしい。

部屋にはコーヒーの苦い香りが満ちる。

「はい」

田村さんが私のマグにそれを入れ、置いてくれる。


何も言えないまま、私はマグを握った。

熱い、けれどその温かさに、少し恐怖が和らいだ。


「死傷者、だいぶ出てるな……」

室長が呟いた。

「速報だが、死者5人、重症者13人、軽症者多数……」


私はやっと落ち着いてきたのか、鼻の奥が痛くなってきた。

涙が浮かぶ。

「高校のクラスメイトが……その電車に、乗ったんだ」


「なに?」

私の左隣のデスクは、作業用に空けてある。その椅子に座って、田村さんが私の様子を見る。

「知ってる人を見たのか」

「うん……」


「確かに乗ったのか」

室長も気遣ってくれる。

「うん……見た」

「何両目に乗ってた?」

「一番前」


涙が勝手に落ちる。

怖い。あの、潰れてしまった車両。

頭を抱える。

嫌なことしか考えられない。


「なぁ、田村くん」

室長が囁く。

「お前さん、今日車通勤?」

「はい」

「そしたらさ」


室長は私の肩に手を置いた。

「こいつを家まで送り届けてくれないか?」

そして私の顔を見る。

「今日は仕事にならんだろう。家で休め」

「でも、今日は会議が……」

私は、立ちあがろうとする。でも、足が立たない。


「大丈夫だ、俺が出る」

室長は、少し笑った。

「アレだろ、業務連絡とかそういうのだろ?俺でもよきゃやっとくから」

そして、私の目を覗き込む。

「帰れ。な?」



田村さんが運転をする時、音楽はかけない。

静かな車内に、ロードノイズだけが響く。

息遣いまで聞こえてしまいそうで、苦しくなる。心臓が高鳴って、頭の中がざわついている。


「ラジオ、かける?」

田村さんが気を遣ってくれた。

「事故のことが気になるなら」

うん、と私は頷く。


「誰を見たの?」

彼は静かに、私に息を合わせてくれる。

ああ、優しいな。

「高校の時のクラスメイト……」

少し、話してもいいか、という気持ちになる。


「私があの頃、片想いしてた男の子なんだ」

息を吐く。

「声をかけようと思ったんだけど、できなくて」

窓の外を見る。明るい冬の空だ。車内は温かくて、少しだけホッとする。


「そっかぁ」

田村さんは静かに頷いた。

「無事だといいね、その人」

「うん」

彼の顔を見る。横顔が、柔らかい。

静かにラジオを聴く。

ラジオは慌ただしく、現場の状況を伝えている。


「速報です」

ラジオのアナウンサーが、叫ぶように話し始めた。

「死者の5人のうち、3人の方のお名前が判明しました」

田村さんが、私の顔をチラッと見る。


「あおきかなこさん56歳、みはしさおりさん19歳、かせこうへいさん27歳」


──加瀬、航平──


聞き違いであってほしかった。

私は、スピーカーを見つめる。

「繰り返します。あおきかなこさん56歳、みはしさおりさん19歳、かせこうへいさん27歳のお三方について、死亡が確認されました」


聞き違いでは、なかった──


「秋元さん?」

田村さんが、私の顔色を窺った。

私の目は、どこも見ていない。ただ、涙を、ほろほろと流すだけだ。

「秋元さん?」

「加瀬くんが……死んじゃった……」


腹の底から叫んだ。

「私が!顔のことなんか気にしないで声をかけてたら!死なずに済んだのに!!」

そして、声をあげて、泣いた。


田村さんは、静かに聞いてくれた。

私の家に着くまで、様子を窺いながら、黙っていてくれた。

なんと温かい空気なんだろう。

それなのに、私は──

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