第19話 商人の来訪と、微かな“香り”への反応

試験区画の芽は、ゆっくりと土を持ち上げていた。

昨日より、ほんの数ミリ背が伸びている。


その小ささが、

領地の未来を支えているというのが不思議だった。


セラが嬉しそうに言った。


「もう一日で、葉が開くと思います」


「水の量は?」


「問題なしです。

 昨日の昼間に温度も安定しました」


視界が表示を浮かべる。


『発芽・成長:順調

 次の課題:保護・情報漏洩対策』


情報漏洩──

あの紙片のことが頭をよぎった。



昼前。

村の入口に、見慣れない荷車が止まっていた。


一頭のロバ。

丁寧に積まれた布袋。

そして、その前で腕を組む男が一人。


マリアが俺に耳打ちする。


「商人です。“リーファ商店”の使いですね。

 前に一度だけ雑貨を売りに来ていました」


男は見た目こそ柔らかいが、

眼光だけは鋭い。

取引の場数を踏んだ商人の目だった。


俺に気づくと、深く頭を下げた。


「グレイス領主様、初めまして。

 リーファ商店のベッソと申します。

 本日は挨拶と……少し噂を確かめに参りまして」


「噂?」


「ええ。“水が戻った”と聞きまして」


今のところ、それなら問題ない。

水路復旧の噂は完全には止められない。


俺は歩を進めながら、静かに答える。


「事実だ。

 第一水路も副水路も流れている」


「おお……それは素晴らしい。

 となると畑も……」


男がそう言いかけた瞬間──

風が吹き、畑の方向から

ほんのわずかに“甘い香り”が漂ってきた。


ベッソの目がわずかに揺れた。


その反応は、あまりに鋭い。


「……今の匂いは?」


マリアが一瞬こちらを見る。

セラも動揺し、口を結んだ。


俺は淡々と答える。


「土に木灰を混ぜた影響だ。

 乾いた匂いが残っているだけだ」


ベッソは一度笑顔を作るが、

目だけが笑っていなかった。


「……なるほど。

 しかし、どこか懐かしい匂いに思えましてね。

 四十年前の“黄金期”を知る者なら、

 必ず嗅いだことのある香り……」


その瞬間、視界が強く光った。


『外部反応:鋭敏

 香り麦の匂いを認識

 情報漏洩リスク:中 → 中高』


まずい。


香り麦の存在を知られるのは早すぎる。


俺は表情を変えずに言った。


「ベッソ。

 取引の話があるなら、ここで聞こう」


「では……遠慮なく」


男は荷車の後ろを叩き、布袋を見せる。


「干し肉、薬草、種、鍋、布……

 雑貨類をいくつか運んできまして。

 水が戻ったなら、多少は買い手がいるかと思いましてね」


アズベルが俺の背後に立ち、無言で様子を見る。


俺は淡々と品を確認しながら言った。


「必要なものは買う。

 だが、残念ながら余計な質問には答えられない」


ベッソは少し肩をすくめる。


「おっと、失礼。

 商人はどうも鼻が良くてして。

 ただ、もし……“あの香り”が本物なら、

 数年後のグレイスは間違いなく大繁盛です」


マリアの手が、わずかに震えた。


セラは俯いて耐えている。


視界は淡い文字を出す。


『ベッソ:商会所属、敵対意志なし

 ただし嗅覚敏感

 香り麦推測:高い』


つまり──

敵ではないが、余計に“気づきやすい男”だ。


俺は短く言った。


「……商会に伝えておけ。

 水が戻ったのは確かだが、

 ここはまだ再建途上だ。

 “特別な作物”など存在しない」


ベッソは笑顔のまま頭を下げた。


「分かりました。

 ただ、もし将来──

 何か特別な作物が生まれるなら、

 ぜひ取引の最初の相手は我が商会で」


その言い回しは、

明らかに“察している者”のそれだった。



ベッソが去った後。

セラは小さく息を吐いた。


「……危なかった……

 あの人、絶対に匂いに気づいてましたよね」


「気づいていた。

 だが、確証はない」


アズベルも渋い表情で言う。


「水路の地図を描かれたばかりだ。

 次は“香りの正体”に目をつける連中が出るぞ」


視界がその言葉を補強するように文字を出した。


『外部関心:

 水 → 香り麦 へ移行兆候

 情報封鎖:強化必要』


マリアが真剣に言う。


「レオン様……

 この領地、“香り”だけが唯一の特産です。

 守るために……何を優先しますか?」


俺は試験区画の小さな芽を見つめた。


その芽は、

世界にひとつしかない宝だ。


「まずは──情報の封鎖。

 匂いが漏れないよう、

 “香り麦の区画を囲う”」


アズベルが頷く。


「人の出入りを制限する必要がありますな」


「さらに──商会の動きを監視する」


視界が微かに光る。


『対策方針:妥当

 次の脅威:商会経由の外部情報伝達』


風が畑を撫で、

小さな芽がわずかに揺れた。


その揺れは、

希望の証であると同時に──

“狙われ始めた”という兆しでもあった。

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