第19話 商人の来訪と、微かな“香り”への反応
試験区画の芽は、ゆっくりと土を持ち上げていた。
昨日より、ほんの数ミリ背が伸びている。
その小ささが、
領地の未来を支えているというのが不思議だった。
セラが嬉しそうに言った。
「もう一日で、葉が開くと思います」
「水の量は?」
「問題なしです。
昨日の昼間に温度も安定しました」
視界が表示を浮かべる。
『発芽・成長:順調
次の課題:保護・情報漏洩対策』
情報漏洩──
あの紙片のことが頭をよぎった。
◇
昼前。
村の入口に、見慣れない荷車が止まっていた。
一頭のロバ。
丁寧に積まれた布袋。
そして、その前で腕を組む男が一人。
マリアが俺に耳打ちする。
「商人です。“リーファ商店”の使いですね。
前に一度だけ雑貨を売りに来ていました」
男は見た目こそ柔らかいが、
眼光だけは鋭い。
取引の場数を踏んだ商人の目だった。
俺に気づくと、深く頭を下げた。
「グレイス領主様、初めまして。
リーファ商店のベッソと申します。
本日は挨拶と……少し噂を確かめに参りまして」
「噂?」
「ええ。“水が戻った”と聞きまして」
今のところ、それなら問題ない。
水路復旧の噂は完全には止められない。
俺は歩を進めながら、静かに答える。
「事実だ。
第一水路も副水路も流れている」
「おお……それは素晴らしい。
となると畑も……」
男がそう言いかけた瞬間──
風が吹き、畑の方向から
ほんのわずかに“甘い香り”が漂ってきた。
ベッソの目がわずかに揺れた。
その反応は、あまりに鋭い。
「……今の匂いは?」
マリアが一瞬こちらを見る。
セラも動揺し、口を結んだ。
俺は淡々と答える。
「土に木灰を混ぜた影響だ。
乾いた匂いが残っているだけだ」
ベッソは一度笑顔を作るが、
目だけが笑っていなかった。
「……なるほど。
しかし、どこか懐かしい匂いに思えましてね。
四十年前の“黄金期”を知る者なら、
必ず嗅いだことのある香り……」
その瞬間、視界が強く光った。
『外部反応:鋭敏
香り麦の匂いを認識
情報漏洩リスク:中 → 中高』
まずい。
香り麦の存在を知られるのは早すぎる。
俺は表情を変えずに言った。
「ベッソ。
取引の話があるなら、ここで聞こう」
「では……遠慮なく」
男は荷車の後ろを叩き、布袋を見せる。
「干し肉、薬草、種、鍋、布……
雑貨類をいくつか運んできまして。
水が戻ったなら、多少は買い手がいるかと思いましてね」
アズベルが俺の背後に立ち、無言で様子を見る。
俺は淡々と品を確認しながら言った。
「必要なものは買う。
だが、残念ながら余計な質問には答えられない」
ベッソは少し肩をすくめる。
「おっと、失礼。
商人はどうも鼻が良くてして。
ただ、もし……“あの香り”が本物なら、
数年後のグレイスは間違いなく大繁盛です」
マリアの手が、わずかに震えた。
セラは俯いて耐えている。
視界は淡い文字を出す。
『ベッソ:商会所属、敵対意志なし
ただし嗅覚敏感
香り麦推測:高い』
つまり──
敵ではないが、余計に“気づきやすい男”だ。
俺は短く言った。
「……商会に伝えておけ。
水が戻ったのは確かだが、
ここはまだ再建途上だ。
“特別な作物”など存在しない」
ベッソは笑顔のまま頭を下げた。
「分かりました。
ただ、もし将来──
何か特別な作物が生まれるなら、
ぜひ取引の最初の相手は我が商会で」
その言い回しは、
明らかに“察している者”のそれだった。
◇
ベッソが去った後。
セラは小さく息を吐いた。
「……危なかった……
あの人、絶対に匂いに気づいてましたよね」
「気づいていた。
だが、確証はない」
アズベルも渋い表情で言う。
「水路の地図を描かれたばかりだ。
次は“香りの正体”に目をつける連中が出るぞ」
視界がその言葉を補強するように文字を出した。
『外部関心:
水 → 香り麦 へ移行兆候
情報封鎖:強化必要』
マリアが真剣に言う。
「レオン様……
この領地、“香り”だけが唯一の特産です。
守るために……何を優先しますか?」
俺は試験区画の小さな芽を見つめた。
その芽は、
世界にひとつしかない宝だ。
「まずは──情報の封鎖。
匂いが漏れないよう、
“香り麦の区画を囲う”」
アズベルが頷く。
「人の出入りを制限する必要がありますな」
「さらに──商会の動きを監視する」
視界が微かに光る。
『対策方針:妥当
次の脅威:商会経由の外部情報伝達』
風が畑を撫で、
小さな芽がわずかに揺れた。
その揺れは、
希望の証であると同時に──
“狙われ始めた”という兆しでもあった。
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