第2話 焦燥の果てで

――届かなかった。


 昨日、ブラッド・ウルフの喉元を狙って突き出した刃は、わずかに届かずに弾かれた。

 その一瞬の遅れが命取りだった。

 牙が目前に迫り、死が喉元を掠めた。

 その瞬間――セリアが飛び込んできた。


 双剣が赤い閃光を描く。

 その刃がウルフの首を断ち切る音を、リアンはただ呆然と聞いていた。


 血が飛び散る。

 倒れた獣の影。

 そして、彼女の背中。

 自分よりもずっと強く、美しく、遠い背中。


 あの瞬間から、胸の中に黒いものが生まれた。



 夜が明けた。

 眠れないまま迎えた朝。

 ギルドの鐘が鳴っても、リアンはベッドから起き上がれなかった。


 頭の中では、何度も昨日の戦いが再生されていた。

 振り抜く刃。

 ウルフの咆哮。

 そして、届かないダガー。


 ――何が足りなかった?

 力か。速さか。勇気か。

 全部、違う気がした。


 ただ、何かが“決定的に”足りない。

 それが分からない。

 分からないまま、焦りだけが膨らんでいく。



 訓練場の砂地に立つ。

 朝日が地平線を染め、風が冷たく頬を撫でた。


 リアンはダガーを抜き、構える。

 昨日と同じ動きで斬りつける。

 一歩踏み出して、振り下ろす。

 だが、空を裂く音は弱い。

 刃の軌跡が、まるで空気に拒まれているようだった。


「くそっ……なんでだよ!」


 叫びながらもう一度振る。

 肩が痛む。

 息が荒くなる。

 足がふらつく。


 どれだけ振っても、届かない。

 あのとき届かなかった牙の先へ。

 セリアが立つ場所へ。

 届かない。届かない。届かない。



 昼過ぎ、ギルドの酒場。

 ざわめきの中で、誰かが笑っていた。


「セリアの奴、また討伐成功だってさ!」

「やっぱり《銀双剣》の名は伊達じゃねえな!」


 その言葉が耳に刺さる。

 聞きたくないのに、勝手に入ってくる。


 あの日、幼い自分が言った言葉が脳裏をよぎる。

 ――俺、英雄になるんだ。

 ――セリアと一緒に。


 けれど、現実は。

 セリアは前に進み、リアンは地面に縫い付けられたまま。

 誰も彼を見ていない。


 英雄なんて、夢物語だったのかもしれない。



 夕方。

 再び訓練場に戻る。

 太陽が沈む赤い光の中で、リアンはダガーを振り続けた。


 掌の皮が裂けても、構わずに。

 汗が砂を濡らしても、止まらずに。


 “今度こそ届く”

 “今度こそ倒す”


 そう何度も自分に言い聞かせる。

 けれど、胸の奥から小さな声が聞こえた。


(無理だよ)

(お前には才能がない)

(セリアとは違うんだ)


「やめろ……そんなこと、言うな……」


 誰もいない。

 それでも、リアンは首を振り続けた。

 頭の中にこびりつく劣等感が、声になって押し寄せてくる。


「俺だって……俺だって、強くなりたいんだ……っ!」


 叫びながら振ったダガーが、手からすっぽ抜けて地面に突き刺さった。

 刃が震え、光を反射する。

 それはまるで、彼の心が砕ける音のようだった。



 夜。

 月明かりの下で、セリアが現れた。

 訓練場の端で彼を見つめ、静かに言う。


「また練習してるの?」

「……まだ、足りない」

「リアン。無理しても強くはなれないよ」

「無理しないと、俺はお前に追いつけない!」


 声が震えた。

 焦り、嫉妬、悔しさ、全部が混ざっていた。


「昨日だって……俺がもっと強ければ、お前に助けられずに済んだ。守れたんだ!」

「リアン、それは――」

「お前には分からない! お前は最初から強かったから!」


 言ってから、後悔した。

 セリアの瞳が痛そうに揺れた。

 彼女は何も言わず、ただ微笑んで言った。


「……じゃあ、焦る前に、自分を見つけて」


 その言葉の意味が分からなかった。

 ただ、胸の奥で何かがざわめいた。


 だが、まだ“それ”が何なのかを知るには、リアンはあまりに未熟だった。



 月が雲に隠れ、世界が暗く沈む。

 リアンは砂地に座り込み、手のひらを見つめた。

 ひび割れた皮膚、乾いた血。

 それでも、ダガーを手放すことはできない。


 焦りは消えない。

 むしろ、より深く、より熱く燃え続ける。


 届かない背中。

 届かない牙の先。

 届かない――英雄の理想。


「俺は……まだ、何も掴めてないんだな」


 呟いた声は風に溶けて消えた。

 夜は静かに、少年の焦燥を包み込む。


 覚醒の導はまだ見えない。

 だが、確かに――この焦りが、リアンを次の夜明けへと押し出していく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る