ネオン街

はらほろひろし

ネオン街

# ネオン街


 夕暮れ時になると、涼介は決まって駅のホームから見える歌舞伎町の方角を眺めた。ビルの谷間から漏れ出すネオンの光が、まだ完全に暗くなりきらない空に滲んでいく。十七歳の涼介にとって、あの光の世界は——配信者やホストやバンドマンが行き交うあの街は——憧れと恐怖が入り混じった、別世界だった。


 涼介は地味だった。ユニクロの白いTシャツに、量販店で買った黒いズボン。髪は母親に切ってもらった中途半端な長さで、いつも寝癖がついている。クラスの中心にいる派手な男子たちが履いているナイキのエアマックスも、涼介には縁のないものだった。


 でも、涼介は自分の地味さを、ただ嘆いているわけではなかった。むしろ、派手に騒ぐだけのクラスメイトたちを、心のどこかで軽蔑していた。涼介にだって、人とは違う何かがあるはずだった。


 その日、涼介は予備校の帰りに新宿駅の東口で降りた。いつもなら西口から真っ直ぐ帰るのに、その日に限って、何となく東口改札を出てしまった。夏休みの始まりで、まだ明るい時間だった。


 改札を出ると、街の匂いがした。


 焼き鳥の煙の匂い、ファストフードの油の匂い、そしてどこからともなく漂ってくる甘ったるい香水の匂い——それらが混ざり合って、新宿独特の空気を作っている。涼介は、その匂いを吸い込みながら、アルタ前の雑踏を抜けた。自然に足は歌舞伎町一番街の入口へと向かっていた。


 通りの両側には、まだ日が高いというのに煌々とネオンが点いている。巨大なゴジラ像。「ドン・キホーテ」の黄色い看板。画面越しに見ていた光景が、今、自分の目の前に広がっている。


 涼介は歩き出した。スマホを握りしめながら、でも、少しだけ胸を張って。


 靖国通りを越えて、さらに奥へ。職安通りを渡ると、街の色が少しずつ変わっていく。明るい店の光は減り、代わりに「ガールズバー」「キャバクラ」「ホストクラブ」のピンクや紫のネオンが増えてくる。観光客の姿は減り、キャッチの男たちが立っている。


 匂いも変わってきた。タバコの煙が濃くなり、居酒屋から漏れる酒と料理の匂いに混じって、どこかツンとする化粧品の匂いがする。


 涼介の心臓が早鐘を打ち始めた。でも、足は止まらない。むしろ、もっと奥へ、もっと奥へと進んでいく。


 区役所通りを過ぎて、細い路地に入った。壁には無数のピンクチラシが貼られている。路地の奥から、排水溝の匂いがした。生ゴミと、何かが腐ったような匂い。


 涼介は立ち止まって、スマホを取り出した。地図アプリを開く。自分がどこにいるのか、確認したかった。それから、何となく、カメラアプリを開いた。路地の奥——薄暗い通路と、その先に見えるネオンの光。構図が、何かに似ている気がした。涼介はスマホを構えた。


 その時、「おい」と声がした。


 振り返ると、黒いジャージを着た男が三人、路地の入口に立っていた。一番手前の男、——ゴールドのチェーンを首にかけた、二十代半ばくらいの男が、涼介に向かって顎をしゃくった。


「ちょっとこっち来い」


 涼介は首を横に振った。


「いえ、大丈夫です」


「大丈夫じゃねえよ。お前、さっきから何ウロウロしてんだよ」


 男が近づいてくる。タバコと香水の混ざった匂いがする。涼介は後ずさりした。


「見てるだけです。何もしてません」


「見てるだけ? 誰が見ていいって言った?」


 男の手が、涼介の肩を掴んだ。


「いいから来い。すぐ終わるから」


 三人に挟まれて、涼介は路地の奥へと連れて行かれた。周りを歩いている人たちは、誰も助けてくれない。見て見ぬふりをして、通り過ぎていく。


 路地を曲がり、さらに細い路地へ。ビルとビルの隙間のような場所——ゴミ箱と自動販売機が置かれた、誰も通らないような場所に、灰色の鉄の扉があった。


 男の一人がポケットからカードキーを取り出して、扉の横の読み取り機にかざした。「ピッ」という電子音がして、扉のロックが外れた。


「入れ」


 扉が開くと、中は薄暗い階段だった。コンクリートの壁に、裸電球が一つだけぶら下がっている。階段は下へ、下へと続いている。湿った空気と、カビの匂いが漂ってくる。


 涼介は足がすくんだ。


「早くしろ」


 背中を押されて、涼介は階段に足を踏み入れた。


 一段、また一段——階段を降りるたびに、地上の光が遠ざかっていく。背後で扉が閉まる音がして、涼介は思わず振り返った。でも、もう遅い。男たちが後ろに立っている。


「前向いて歩け」


 地下一階——踊り場に「B1」と書かれたプレートが貼ってある。でも、階段はまだ続いている。壁のコンクリートは古く、ところどころにひび割れがある。階段の隅には、誰かが吸ったタバコの吸い殻が落ちている。匂いはさらに濃くなる——タバコと、カビと、何か湿った土のような匂い。裸電球の光は弱く、自分の足元さえよく見えない。


 地下二階——「B2」のプレート。階段の踊り場は狭く、三人の男と涼介で、息が詰まりそうだ。でも、階段はまだ続いている。もっと下へ。空気が重くなる。耳が詰まるような感覚。


 地下三階——ようやく、階段が終わった。踊り場の先には、灰色の鉄の扉がある。扉には「302」という数字が書かれている。でも、男たちはその扉を開けずに、右に曲がった。


 そこには、長い廊下が伸びていた。


 廊下の両側には、扉が並んでいる。「301」「303」「304」「305」——どの扉にも、三桁の数字が書かれている。廊下の天井には蛍光灯が並んでいるが、半分以上が切れていて、光は薄暗い。壁には、配管がむき出しになっている。床のリノリウムは剥がれかけていて、下のコンクリートが見えている。廊下の突き当たりからは、かすかに音楽が聞こえてくる——重低音の効いた、クラブミュージックのような音。


「こっちだ」


 男たちは涼介を、廊下の奥へと連れて行った。「310」と書かれた扉の前で止まると、男の一人がドアノブを回した。


 扉が開いた。


 中は小さな部屋だった。二メートル四方くらいの、窓のない部屋。壁は白いペンキで塗られているが、ところどころに黒いシミがついている。部屋の真ん中には、折りたたみ式の椅子が二脚と、小さなテーブルが置いてある。天井には、白い蛍光灯が一つ。その光が、冷たく部屋を照らしている。


 部屋の中には、妙な匂いがした。消毒液のような匂いと、古い畳のような匂いが混ざっている。


「座れ」


 涼介は椅子に座らされた。三人の男は、ドアの前に立って腕を組んだ。涼介を見下ろしている。


 しばらくして——どれくらい経ったのかわからない——ドアが開いて、別の男が入ってきた。


 四十代くらいの、白いワイシャツにベストを着た男だった。ネクタイは緩められていて、首元から、龍の刺青が少しだけ見えている。男は涼介の前の椅子に座ると、じっと顔を見た。タバコの匂いが、濃く漂っている。


「偵察か?」


 涼介は首を横に振った。


「ち、違います」


「どこの店の?」


「店なんて、知りません」


 男は、ゴールドチェーンの男に目をやった。


「スマホ」


 ゴールドチェーンの男が、涼介からスマホを取り上げて、龍の男に渡した。画面には、ヒビが入っている。


 男はスマホを操作し始めた。写真フォルダを開く。友達との写真は一枚もない。あるのは、授業のノートを撮ったものと、風景の写真——夜の街灯、雨に濡れた路地、誰もいない公園。そして、何枚かの奇妙な写真。斜めに傾いた構図で撮られた看板。ビルの壁を下から見上げたアングル。地面に落ちた影だけを撮った写真。


 男は操作を続ける。音楽アプリを開く。プレイリストが表示される。


 「無名時代達」

 「無人島に持っていく曲候補」

 「路傍にて」


 男は、最初のプレイリストをタップした。曲名が並ぶ。どれも、メジャーなアーティストではない。


「ふーん」


 男は、何も言わずに次のアプリを開く。SNSのタイムライン。


 男は、突然、画面を涼介に向けた。


「これ、何?」


 画面には、涼介が撮った写真が映っている。夜の公園のベンチを、斜めの構図で撮った写真だ。


「写真です」


「見りゃわかる。何のマネ?」


 涼介は答えられなかった。それは、好きなバンドのアルバムジャケットの構図を真似たものだった。でも、ジャケットには二人の人物が写っていた。涼介の写真には、誰もいない。


「あー、わかった」


 男は、スマホを操作して、別の写真を開いた。ビルの壁を見上げた写真。


「これも、何かのマネだろ。映画のポスターとか」


 涼介は黙っていた。


「一人で撮ってんだろ。だから、人が写ってない」


 男は、スマホをテーブルに置いた。


「お前、高校生だろ」


「……はい」


「何年?」


「二年です」


 男は、涼介の顔をじっと見た。


「偵察じゃないな。ただのガキか」


 男は立ち上がって、ドアに向かった。


「もういい。帰れ」


 涼介は椅子から立ち上がった。


「ああ、待て」


 男が振り返った。


「ここで見たこと、誰にも言うな。学校にも、家にも。わかったな」


「は、はい」


「もし喋ったら——まあ、いいや。お前みたいなガキに何言っても無駄だろ」


 男は、ドアを開けて出て行った。ゴールドチェーンの男が、涼介に顎をしゃくった。


「帰れ」


 涼介は一人で廊下を戻った。「305」「304」「303」——数字を逆に辿っていく。廊下の突き当たりで右に曲がって、階段の前に出た。


 階段を上る。地下三階から地下二階へ。足が重い。手すりを掴みながら、一段ずつ上っていく。カビの匂い、タバコの匂い——それらが、まとわりついて離れない。地下二階から地下一階へ。蛍光灯の光が、やけに白い。地下一階から地上へ——。


 鉄の扉を押し開けると、外の空気が流れ込んできた。涼介は思わず、大きく息を吸い込んだ。


 外はもう完全に暗くなっていた。ネオンの光が、やけに眩しい。涼介は路地を抜けて、大通りに出た。靖国通りには、人がたくさん歩いている。


 焼き鳥の煙の匂いがした。ファストフードの油の匂い。甘ったるい香水の匂い——さっきと同じ匂いなのに、今は別の意味を持っているように感じた。


 スマホを見ると、もう九時を回っていた。母親から三件の着信があった。涼介は電話をかけ直そうとしたが、手が震えて上手く操作できない。


 とにかく家に帰らなければ——。


 涼介は歩き始めた。新宿駅を目指して、人混みの中を歩いた。でも、駅に着いても、改札を通る勇気が出なかった。電車に乗ったら、あの男たちが乗ってくるような気がした。


 結局、涼介は歩いて帰ることにした。


 新宿駅を越えて、西へ。山手通りを渡り、住宅街に入っていく。街灯の少ない道を、涼介は一人で歩いた。後ろを振り返っても、誰も追ってきていない。それなのに、すれ違う人の顔が、みんな怖く見えた。


 あの男は、涼介の写真を見て、一瞬で何かを理解した。構図が何かのマネだということ。一人で撮っているということ。そして——涼介が考えた。


 自分が特別だと思っていた写真は、ただのマネだった。しかも、元の作品にあった「人」を、涼介は撮れなかった。撮る相手がいなかった。


 プレイリストも——。


 家に着いたのは、十一時過ぎだった。母親に「どうしたの、心配したのよ」と言われたが、涼介は「ごめん、友達と話し込んでて」とだけ答えた。


 その夜、涼介は眠れなかった。目を閉じると、地下の部屋が見えた。テーブルの上に置かれた、自分のスマホ。男が見ていた、自分の写真。そして、男の言葉——「一人で撮ってんだろ」。


 その日から、涼介は歌舞伎町の方角を見なくなった。新宿駅を通るときも、東口には近づかなくなった。


 そして、写真も、以前のようには撮れなくなった。カメラを向けるたびに、あの男の声が聞こえる。「何のマネ?」「一人で撮ってんだろ」。


 ——二十七歳になった涼介は、今、新宿の会社で働いている。ユニクロの白いシャツに、量販店で買ったグレーのスラックス。髪は千円カットで切っている。毎日、新宿駅を使っているが、東口の改札は一度も使ったことがない。歌舞伎町も、あの日以来、一度も足を踏み入れていない。


 涼介は相変わらず、地味だった。会社でも目立たない存在で、飲み会でも隅の方に座っている。SNSには、華やかな週末を過ごす同僚たちの投稿が流れてくる。涼介は、それをただ眺めるだけだ。


 涼介のスマホには、今も音楽が入っている。でも、プレイリストの名前は、もっと平凡なものになった。「出社用」「CITY POP」。本棚には、以前買った本が並んでいる。でも、新しい本を買うことはほとんどない。


 だが、ふと、あの夜のことを思い出すことがある。


 新宿駅の近くを通ったとき、風に乗って焼き鳥の匂いが漂ってくる。その匂いを嗅ぐと、涼介の胸には、あの夜の記憶が蘇る。


 地下三階の部屋。テーブルの上に置かれたスマホ。男が見ていた、自分の写真。「一人で撮ってんだろ」——その言葉。


 あの感覚は、今も涼介の中に残っている。会議で新しい企画を提案しようとして、口をつぐんでしまうとき——転職サイトを開いて、結局何も応募せずに閉じてしまうとき——休日に何かをしようと思って、結局ベッドの中でスマホを見ているだけで終わるとき——。


 涼介の胸には、あのときと同じ、何とも言えない不安が広がっていく。


 それは、自分が特別だと思っていたものが、実は誰かのマネで——しかも、元の作品にあった大切なものを、自分は持っていなかった——そのことを、見透かされてしまった恐怖だ。


 その恐怖は、二十七歳になった今も、焼き鳥の匂いとともに、涼介の心を、ときおり締めつけるのである。

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