3−2. 疑心と配給
田村の“作品化”が確認されてから、まだ数時間も経っていない。
それなのに、体育館の空気は昨日とは別物だった。
誰も声を出そうとしない。
言葉という行為そのものが、何かを壊してしまう気がした。
蛍光灯の光は変わらないはずなのに、白さが鈍く濁って見える。
外の霧が光を乱し、時間の区切りを奪っていた。
朝なのに朝の色を感じない。
「配給を決める」
桐生が黒板の前に立ち、チョークを握った。
短い黒髪を手ぐしで整えながら立つ姿は、昨夜より明らかに疲れていた。
声は落ち着いているが、どこか急いている。
数字を置くことで、崩れかけた秩序をつなぎ止めようとしているように聞こえた。
「水は昼と夜で一人コップ一杯ずつ。食料は米、レトルト、缶詰。……四十五人分を三日で割る」
浜田先生と藤木先生が、無言で横から補助する。
浜田先生の癖のある前髪は乱れ、藤木先生の細い目の下には深い影ができていた。
教員の疲れは隠せなかった。
それでも、黒板の前に立つ姿勢だけは崩さない。
“普通の大人”を演じることで、生徒の崩壊を止めようとしているのが分かった。
体育館中央の机に積まれた食料箱。
袋の擦れる音、紙コップが当たる軽い音。
それらの生活音だけが、かろうじて現実に触れている証だった。
美咲が列の端で紙コップを持ち、小さく言った。
肩までの黒髪が光の届かない場所で揺れ、その白い横顔にかすかな疲労が滲んでいる。
「……残り、二日分だよね」
誰も返事をしなかった。
返事をすれば、それが現実として固まってしまう気がした。
列は静かに流れる。
食べ物を受け取る手つきも慎重で、誰も余計な音を立てない。
矢島が口を開いた。
短髪を逆立てた、やや不良めの顔つきが、今は強張っている。
「見張りは? 夜は全員ここに固まるとして、入口は二人いるよな」
「二時間交代、二人一組。……勝手に離れるな」
桐生は名簿を見ながら淡々とペアを読み上げる。
返事は小さく、かすれていく。
うつむいたまま手だけ挙げる生徒もいた。
白石は配給に並ばず、壁際でノートを広げていた。
淡い栗色の髪が頬にかかり、視線は紙の上に固定されている。
体育館の見取り図、動線、出入口とトイレの距離。
線は真っすぐで、震えていない。
だがその静けさの裏に、必死の焦りがあることは分かった。
「……食べないのか」
僕が訊くと、白石は視線を動かさずに言った。
「あとで。先に記録します」
「何を」
「『一人にならない』ために、むだな移動を減らしたいんです」
昨夜、田村の記録を書いたときの白石の震えが蘇る。
“書く”という行為が、現実を固定してしまう恐怖を知ってしまったのだ。
近くの生徒が囁く。
「白石……落ち着きすぎ」
「なんか、こええよ……」
声は小さくても、内容だけが耳に鋭く刺さった。
白石は何も言わない。
ノートの余白に、小さな点を一つだけ書いた。
句点なのか、呼吸の印なのか分からない。
配給が終わりかけた頃、矢島が息を吐きながら言う。
「……記録して何になるんだよ。書いたって田村は戻らねぇ」
桐生が振り返る。
「意味は……作るんだよ」
その短い言葉が、体育館をわずかに揺らした。
昼過ぎ、当番表が壁に貼られた。
見張り、配給、トイレ誘導、休息。
名前の下に書かれた矢印は、白石の描いた見取り図と完全に一致している。
動線が一本の線で結ばれるだけで、“秩序”が戻ってきたように見えた。
蛍光灯が一度だけ明滅した。
全員が息を止め、天井を見上げる。
何も起きない。
ただ、空気が一段階重くなった。
窓の外から霧越しの白い光が差し込み、床を淡く染める。
その光の中で、誰かの影がわずかに“遅れて”伸びていた。
「……影、昨日よりずれてる」
白石がノートに数字を書き込む。
「二十センチ以上……」
そのとき、体育館の奥でざわめきが起きた。
視線を向けると――
森川が非常口の前に立っていた。
つい先ほどまで、彼女は配給の列の後ろで毛布を抱えていた。
靴音も、布の擦れる音も聞いていない。
誰も“移動”を認識していなかった。
「……森川?」
美咲が声を掛ける。
森川はゆっくり顔を上げた。
長い黒髪は乱れ、目の下には深い隈。頬は紙のように青白い。
焦点の合わない目。
涙の跡が、乾いた線になっていた。
「移動……気づけなかった」
白石が低く呟いた。
「音が吸われてる。影のずれと同じ……“認識の遅れ”です」
僕の背中に冷たい汗が流れた。
影だけじゃない――人の動きすら、世界のほうが“遅れて”届いてくる。
森川の指先が、非常口の取っ手に触れた。
金具が、冷たく軋む。
「開けるな!」
桐生が叫ぶ。
森川は肩を震わせ、手を離した。
「……ごめんなさい」
毛布を抱き直し、体育館の隅へ戻っていく。
誰も追わなかった。
触れれば壊れる――全員がそう思っていた。
午後になっても霧は薄くならず、外の景色は白いままだった。
携帯の電波はゼロ。
体育館の空気だけが、時間と一緒に重く沈んでいる。
美咲が小さな声で言った。
「……森川さん、大丈夫かな」
答えた者はいなかった。
僕は窓の外を見た。
霧が呼吸するみたいに明滅し、
その向こうで時計塔が黒い輪郭だけを保っている。
田村の死が“確認された”朝。
それだけで終わらないことだけは、
空気の重さが教えていた。
非常口の向こうの霧は静かに揺れていた。
ただの霧のはずなのに、
“誰かがそこに立っている”輪郭が、
目の端で形になりかけていた。
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