3章. 記録の断片(二日目朝〜)

3−1. 石膏の朝

 目を開けた瞬間、世界の温度がずれていた。

 体育館の天井に並ぶ蛍光灯は夜のまま白く光り、なのに空気だけが朝のように薄い。霧が窓の外を覆ったまま、どこにも“朝の色”がなかった。


 誰も熟睡していない。

 毛布の擦れる音すら遠くに吸い込まれ、呼吸だけがやけに大きい。

 白石がノートを抱えたまま丸まって眠り、美咲は体育館の隅で膝を抱えていた。

 美咲の黒髪は肩のあたりで軽く跳ね、寝不足のせいかその整った目元に薄い影が落ちている。白石の栗色の髪は乱れて額にかかり、細い指からノートが離れずにいた。

 桐生は長めの前髪をかき上げながら、立ったまま、ずっと時計を見ていた。


 六時を過ぎていた。

 放送の“夜のルール”が終わった時刻だ。


「……行く」

 桐生が小さく呟く。誰に向けた言葉でもないのに、体育館全体がその言葉に反応して静まった。


 浜田先生、藤木先生、相沢先生が前に出る。

 藤木先生の首に下がる一束の鍵――職員室、準備室、美術室、理科室。昨夜、この鍵を取りに一度だけ昇降口の方に行ったのは覚えている。あの時、昇降口の前に“誰かがいたような気配”が確かにあった。


 その“誰か”が田村だと全員が思っていた。

 でも、誰ひとり彼を体育館に連れ戻していない。


「教師三名、同行する生徒は……最小限にする。柊、白石、美咲、桐生。四人だけ」

 浜田先生ははっきり言った。

「他の生徒はここから出ないこと」


 ざわ、という音が後ろで広がる。

 だが誰も反論はしない。“一人になれば死ぬ”――そう昨夜の放送が教えたばかりだ。


 体育館を出た瞬間、空気の温度が変わった。

 廊下は夜のまま冷たく、霧の光が窓から薄く染み込んでいる。蛍光灯の明滅が、ゆっくりした呼吸のように波打つ。影がついてきているのに、ほんの少し遅れて滑るように揺れた。


「……影、またずれてる」

 美咲の声が震える。

 白石がノートを開きながら言った。

「ずれの幅、昨日より……大きい気がします」


 美術室前の廊下に着いたとき、空気がひと段階落ちた。

 温度ではなく、重さ。

 誰かがここを通った、というより、“ここにいた”という圧。


 藤木先生が鍵を差し込む。

 金具が鳴る音が、やけに硬い。


 扉が少しだけ開き、冷気が流れ出た。

 それは夜の冷たさではなく、石膏室のような乾いた冷たさだった。


「開けます」

 藤木先生が扉を押し広げる。


 僕は思わず息を飲んだ。


 ――白。


 部屋全体が、白で塗り潰されていた。

 石膏の粉と霧の光が混じり合い、天井から床まで薄く霞んでいる。


 その中央に、“人の形”があった。


 田村だった。

 いや、田村の形をした“作品”だった。


 制服の皺がそのまま固まり、髪の一本一本まで石膏の粉を含んで光を吸っている。

 田村の短い黒髪は、表面の毛流れまで石膏で固定され、まるで時間ごと凍りついたようだった。

 目は閉じていたが、まぶたの薄さまで再現されていた。

 胸のあたりだけ、布の質感がかすかに残っている。


「……おい……田村、なのか」

 桐生の声が掠れる。


 藤木先生が震える指で田村の頸に触れた。

 その指が石に触れた瞬間、小さな粉が床にこぼれた。


「体温なし。……脈も呼吸もない」

 藤木先生の声は淡々としていたが、言葉はひどく震えていた。


 美咲が口元を押さえる。

 白石はノートを開いたまま固まっていた。


「配置がおかしい」

 白石が絞り出すように言う。

「光の入り方、机の向き……偶然じゃありません。置かれてます。『展示』に近い」


 “展示”。

 その言葉が空気を刺した。


 浜田先生が壁に掛かったカレンダーを見る。

 霧越しの光で数字がぼやけて見えた。

「……記録する。柊、白石、手伝ってくれ」


 白石は震える手でペンを握った。

 紙に触れる音が異様に大きい。

 そして書いた。


 “二〇××年十二月二日 六時二十三分

 美術室 田村 石膏状固定(死亡)

 配置意図あり。要検証。”


 その文字を見て、僕の背筋が冷たくなる。

 白石が書いた行が、“現実を固定した”気がした。


 ――見たから、死が確定したんじゃないか。


 そう思った瞬間、部屋の隅で蛍光灯が一度だけ瞬いた。

 白い粉がふわりと舞い、田村の肩に“降り積もった”。


 その粉と同じものを、僕は昨日、昇降口で見た。

 誰もいないのに“誰かがいたような痕跡”。

 あれは田村のものだったのだと、ようやく理解した。


「……外へ出よう。ここに長くいるのは危険だ」

 浜田先生が言い、僕たちはほぼ同時に頷いた。


 廊下へ出ると、空気が少し軽くなった気がした。

 だが美咲の表情は消えたままだった。

「田村、昨日まで話してたのに……」

 その声に桐生が返す言葉を見つけられず、拳を握ったまま唇を噛んでいた。


 体育館へ戻る途中、白石が立ち止まる。

「……書きたくない」

 ノートを握る指が白くなる。

「でも、書かないと。“田村は戻らない”って……分からなくなるから」


 僕は何も言えなかった。

 彼女が書く一行一行が、誰かの存在を“死後”に固定していくのを見ていられなかった。


 体育館に入ると、生徒たちが一斉にこちらを見た。

 その視線が“結果”を求めているのが分かる。


 浜田先生が膝をつき、全体に向けて言う。

「……田村は亡くなりました。外傷はありません。原因も分かりません。ただ――」

 言葉を探すように、短く息を吐く。

「これは事故ではありません。……何者かによる“制作”が行われています」


 空気が止まる。

 誰かのすすり泣きが、体育館全体に広がっていく。


 桐生が振り返り、強い声で言った。

「これより当面の行動方針を確認する。夜は絶対に一人にならない。トイレも二人以上。……そして今日、もうひとつ探索する」


「……何を?」

 誰かが震える声で問う。


 桐生は答えた。

「“影のずれ”だ。……田村の位置と、昨日の影の数が食い違っていた。もうひとつ、何かが起きている」


 静寂が深く落ちた。

 朝なのに、朝が遠い。

 僕らの影だけが床の上で微かに揺れ、その輪郭がほんのわずかに遅れて動いた。


 田村の席を見つめる誰かの影が、

 一瞬だけ“十一番目”に見えた気がした。

 気のせいだと思いたかった――だが、僕の影だけが、

 床の上でわずかに遅れて動いた。

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