3−3. 廊下の影
夕方が近づいてくると、体育館の空気はさらに重くなった。
昼と夕方の境目さえ曖昧で、光が濁った白のまま止まっている。
壁に掛けられた時計は動いているのに、時間が進んでいる実感がない。
当番表に従い、僕と白石が見張りを担当する時間になった。
体育館の入口脇に椅子を二つ並べ、懐中電灯を持つ。
体育館の中には毛布に包まった生徒たちが散らばっている。
誰も眠っていない。
眠ったところで、何かに“触れられる”気がしたのだろう。
白石はノートを膝に置き、ページを開いたまま沈黙していた。
淡い栗色の髪が頬にかかり、黒縁の眼鏡の奥の目だけが紙面をじっと追っている。
書くべきことは山ほどあるのに、ペンが動かない。
「……大丈夫か」
僕が声をかけると、白石は目だけ動かした。
「大丈夫じゃ、ないです。でも、書かないと……もっと怖くなる」
その声は紙より薄い。
田村の記録を書いたときの震えをまだ引きずっている。
体育館の入口の外は真っ白だ。
窓越しに霧を見ると、まるで別世界に通じているみたいで、吸い込まれそうになる。
「眠い?」
「怖いだけ」
白石の返答は短いが、正直だった。
しばらくすると、体育館の扉が――ごくわずかに軋んだ。
風ではない。
この場所に“風”という概念がまだ残っているのかすら怪しい。
僕は立ち上がり、白石も懐中電灯を握りしめる。
光を扉に向けるが、金具は動いていない。
けれど、その“わずかな音”が耳に残った。
「……今の、何?」
「分からない。中からじゃない……と思う」
そう口にした瞬間、背後――体育館の中から小さな足音が近づいてきた。
「柊くん」
振り向くと、森川が立っていた。
長い黒髪は乱れ、血の気を失った頬に涙の跡が細い線を残している。
目の下に深い影。
顔色は朝よりさらに悪い。
毛布を抱きしめたまま、誰かを探すように視線が揺れている。
「どうした」
「……廊下に、誰かいた」
白石が息を飲んだ。
「誰かって……見えたの?」
「見えた。……でも、顔がなかったの」
森川の声は震え、最後の言葉がかすれた。
「顔がない?」
僕が確認すると、森川は必死に頷いた。
「こっちを見てたのに、目も鼻も口もなかった。
でも……“見られてる”って分かった。分かるんだよ……」
言いながら、森川は自分の腕を抱いて震えている。
体育館の中でざわめきが起きる。
数人の生徒が起き上がり、扉の向こうへ視線を向けた。
「夢じゃないのか?」
矢島が不機嫌そうに言う。
逆立った短髪と鋭い目つきが、いつもの強気とは違う硬さを帯びている。
「顔がなくて、どうやって見てたって分かるんだよ」
「分かるの……分かるんだよ……」
森川は泣き笑いのような表情で答えた。
その顔が、誰よりも苦しそうだった。
白石はそっとノートを開き、細い字で書きつける。
“森川花 廊下に人影を見たと証言。確認できず。”
そのペン先が紙を擦る音が、体育館全体よりも大きく聞こえる。
「扉、開けなくてよかったです……。あの影、すぐそこに……」
森川の声は割れそうで、でも途切れなかった。
桐生が歩み寄り、低い声で言う。
寝癖の残る短い前髪を指で押さえながら、その目だけは真っ直ぐだった。
「森川。今日はここで休め。扉には近づくな」
「……うん」
森川は言われるまま体育館の隅に戻っていく。
背中が小刻みに震えていた。
あの廊下の影が、彼女の中で“現実”として固定された瞬間だった。
そのとき、体育館の照明が一度だけ瞬いた。
光が揺れ、影が半拍遅れて伸びる。
人の影なのに、“遅れてくる”のが明らかだった。
「また……ずれてる」
白石が影と足の距離を見比べながら、震える声で言った。
「どうして、こんなに……」
確かに、影は足元から十数センチ遅れてついてきている。
それだけなら見間違いだと自分を納得させることもできた。
だが、その“遅れ”は廊下の影と同じ現象だった。
僕の喉が乾く。
さっきの扉の微かな音と、森川の証言が頭の中で繋がった。
――廊下に“何か”がいる。
それは顔がないのに、こちらを見ている。
そして影だけが遅れて揺れている。
「柊」
白石が僕の袖をそっと引いた。
体育館の出入口のガラスの向こう、
霧に紛れた廊下を――何かが通った気がした。
いや、正確には“通った気がする”だけだ。
形は分からない。
ただ、音が一瞬だけ吸い込まれた。
廊下の空気が波打つ。
生き物が触れたわけではなく、空気そのものが揺らいだ。
その一瞬、僕は確かに見た。
――霧の向こう、何かが僕らを見ていた。
「今日は……誰も外に出るな」
桐生が小さく言う。
その声は命令というより、祈りに近かった。
僕は懐中電灯を握りしめ、扉から目を離せなかった。
さっきの影は、まだそこにいる気がしてならなかった。
そして森川の姿が、体育館の隅でさらに小さく見えた。
呼吸のたびに肩が震え、毛布の中から目だけが扉の方を見ている。
――彼女を追ってきているのか。
そんな考えが頭を離れなかった。
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